17.捨てたもの、得たもの

「――これは、この『村』に古くから伝わっている歴史書でね」

 エンケが持ってきたのは、大きくそして分厚く、けれどもひどく古びた本だった。開いてしまえば、ばきりと背が折れてしまいそうだったが、エンケはそっと開いた。ページを見れば、細かな文字でぎっしりと何かが綴られていた。

「――昔、人々、つまり我々には、心があったんだ……」

「心……」

 懐かしく思える言葉を、口の中で転がすように呟けば、何かがすとんと落ちる様な感覚をシュメルヴィは覚えた。

 心――影響を与え、影響を受けるもの。

 はっとして、シュメルヴィは顔を上げた――それで、普段は惹かれないものに、美しいと感じたのだ。

 ――けれども、もやもやしたのは、何故。あんなに苛立ったのは、何故。

 『街』の笑顔を気持ちが悪いと思ったのは、どうして。

 疑問はあったものの、エンケは話を続けた。まるでシュメルヴィとレクサルに、絵本を読み聞かせるかのように。

「心があると、嬉しいと思ったり、楽しいと思ったり、それこそ、何かを素敵だと思ったり、そういうことができたんだ……そして心は、他の心と触れ合うことで、響き合う――共鳴するんだよ。その思いが、伝わるんだ。それが一つになって……人々は、絆を得ていた……君達がいた『街』のように、たくさんの決まりで人々を縛らなくても、人々は協力していけたんだ。互いの喜び、互いの悲しみが理解できるからね」

 と、エンケはページをめくる。古びた紙の香りが舞った。

 次のページには、絵があった。

「……何これ」

 そう言葉を漏らしたのは、レクサルだった。そしてシュメルヴィは、顔を歪める。

 描かれていたのは、人が人に刃物を刺している絵だった。

「変な絵ですね」

 レクサルは微笑んだまま、その絵を見下ろす。

「人が人を刺してるなんて」

 ――レクサルには、わからないらしい。

 シュメルヴィは一人、顔を青くさせていた。

 わかったのだ。この絵が何なのか。

 ――旅の道中、自分は、レクサルが嫌になるほど、憎く思えるほど、苛立ったのだから。

 きっと、この絵は、その果て。

「――君達は、心が、いや、星が災いをもたらすと言われたんだよね? 『星憑き』になった人間、つまり心を取り戻した人間が、災いをもたらす、と」

 エンケはその絵を、指で軽く叩いた。

「……心は、素晴らしいものだよ。だからこそ、この『村』は昔、それに気付いて『街』から離れた人々が作り上げたんだから……でも心は、時に攻撃的になることもあった。心があると、いろんなことを感じてしまうんだ。いいことも、悪いことも。そして悪いこと、悪い響きばかりを取り込んでしまうと……心は耐えられなくなって、暴れ出すんだ。そして――大昔、争いが起きた」

 と、エンケはそこで顔を上げ、窓の外を見つめた。そこにあるのは、どこまでも続いている砂漠。

「……君達には想像できないだろう。私にも、上手く想像ができない。とにかく、人が殺し合ったんだ。暴れる心のままに。そしてそれは世界までも壊して……結果的に、世界は荒れ果てた」

 そうして、エンケは再び二人へと視線を戻した。その顔は、神妙なもの。

「生き残った人々は、心があるから、こんなことになったんだと思った。そこで……天に願った。もう争いたくないと。だから心はいらないと……で、天はその願いを聞き入れた」

「天……」

 シュメルヴィは言葉を繰り返す。咀嚼し、理解するかのように。

 エンケの話は、まだ続く。

「天は人々の願いを叶えた……天は、人が生まれると、その心を取り上げるようになったんだ。取り上げて、星と一緒に夜の空に飾りつけるようになった――そうやって、人々の心は星になったんだ。本当の星に混じって」

 窓の外の夜空を見れば、いくつもの星が輝いていた。

 一体、あのうちのいくつが、人の心なのだろうか。

「シュメルヴィ君、君、『星憑き』になって、子供っぽいって言われること、なかった?」

 と、不意にエンケは尋ねてくる。そんなことは何回もあって、シュメルヴィは頷いた。

「それはね……子供っていうのは、まだ心があった名残があるからなんだ。大人になったら消えてしまうみたいなんだけどね……子供は、感情で動けるんだ。ただ、理性よりも、感情の方が勝ってしまって……それが理不尽だと思われることが多々あるらしいけど」

 そうしてエンケは、次のページをめくった。

 そこには――流れ星の絵があった。

 あの、どうしても聞こうとしてしまう音を奏でる、流れ星。地上に向かって来ている星。

「さて、心は星となって、天に飾られることになった……でもね、心も黙っていなかった。心は天に飾られても、何とか人々のところへ……人という器の中へ、帰ろうとしたんだ。そこが本来あるべき場所だからね……引力がある、とでもいうのかな」

 つと、エンケはシュメルヴィを見据える。

「……十五歳の夜を過ぎた者でないと、夜は『街』の外には出てはいけない。君達のところには、そんな決まりがあるそうだね? それはね……星になった心は、持ち主が十五歳になるまでに、落ちてくるからなんだ」

 星が、落ちてくる。

 ――毎晩のように響いていたあの音を、シュメルヴィは思い出した。

 心が落ちてくる、音。

「十五歳になる前に外に出ると――心が帰ってきてしまうから。『星憑き』になってしまうからね」

 エンケはそう言う。けれども、不思議だ。

「……『街』の中に、星は降ってこないけど」

 シュメルヴィの疑問を、レクサルが代わりに口にしてくれた。するとエンケは頷いて。

「……人々が、また天に祈ったんだよ。人に星が落ちないようにしてくれって。そうしたら天は、星の落ちない場所を用意した……人々はそこに住むようになったんだ、『街』を築き上げてね」

 思い出してみれば。

 星はいつも『街』の近くに落ちていた。旅に出て、『街』を離れて気がついた。星は、『街』の方を目指して地上に落ちてきているのだと。

 人々に憑りつこうと、狙っているのかと思ったが――どうやらその通りらしい。

 ――そして、自分は憑りつかれた。心が、帰って来た。

「『街』は、心を捨てた人間の場所として、完成したんだよ。心がなくても、絆がなくても、協力し合える決まりのシステムまで作り上げて……」

 エンケは言う。シュメルヴィを見据えて。

「……君は『街』にいる時、すごく苛々して苦しかったと思うよ。周りには、心のない人間しかいないのだから。君が心を響かせても、誰も拾ってくれないんだ。それどころか、響きは反射して、歪んで返ってくる。虚しさだけが返ってきて、心は結果的に悪いものを取り入れてしまっていただろう……」

 それこそが、もやもやと苛々の原因だった。

 単純に、星のせいではなかったのだ。

 自然とシュメルヴィは胸を押さえていた。

 ――孤独な星は、震えて泣いていたのだ。

 そしてここに来てやっと、仲間を見つけた。

 やがてエンケは本を閉じた。そうしてまた、シュメルヴィを見据える。

 その目は、まるで何を考えているのか、覗き込むような目で。

 また慈愛に満ちたような目だった。

「シュメルヴィ君。君は、星を返しに来たんだよね?」

 その質問を、もう一度、彼は口にする。

「どうする? 多分君は……心がいいものだって、気付いてると思うんだけど。今の話を聞いて、そこからまた、どう思ったかな……」

 ――『街』にいるのが、苦しかった。

 ――災いをもたらすと、言われた。

 だからこそ、星を返しに来たものの。

「……」

 シュメルヴィは、何も答えられなかった。レクサルに肩を叩かれるが、無言のまま。

 ――夕日が、忘れられなかった。

 星を空に返してしまったら、もう、あの夕日を見た時のような気持ちには、二度となれないのだろう。あの、言葉にできない素晴らしい思いには。

 そう、思うと。

「……わかりません」

 どこか、心を手放したくなくなってしまったのだ。

 ――とてもよかったのだ。

 そしてこの『村』にいる感覚も、とても心地がいい。

 シュメルヴィは、心のある良さを、知ってしまっていた。

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