05.災い

 ピオニー小屋には、ピオニーの貸し出し受付所も併設されている。その二階が、牧場で働く者達の休憩室になっていた。シュメルヴィは休憩室に入れば、濡れた靴と靴下を脱ぎ、それからズボンも脱いで、予備に替える――ピオニーの世話の仕事は、汚れ仕事だ、替えはいつも用意してあるのだ。

 新しいズボンを穿いて、それから靴下、靴も新しくして、濡れたものは休憩室内の端に干す。そうしてやっと、シュメルヴィは溜息を吐いて椅子に座り込み、机に突っ伏した。

 まだ休憩時間ではなかった。仕事は終わっていなかった。それでも、シュメルヴィは立っていられなかったのだ。

 ――どうしてあんなことをしてしまったのだろう。

 どうも、やはり調子が悪い。

 何か夢を見ているような気がした。自分だけが、世界から切り離されたような、悪夢。

 胸中にあるもやもやが、どんどん大きくなっているような気もした。

 ――けれども、不思議と、認めたくなかったのだ。

 それに、仕事はやらなくてはいけないこと。

 ――全部自分が悪いのだ。

 ……ならば、より仕事を頑張らなければ。

 そう思って、シュメルヴィはようやく顔を上げた。だが。

「……うっわ」

 時計を見て、普段なら漏らさないような声を漏らした。

 あれから、かなりの時間が経っていた。体感では、そんなに時間が経っているとは、全く思えないほどの時間が。

 もう昼前になっていた。すっかり仕事をさぼってしまった。今頃、ピオニー達の散歩に行ったゲイルが小屋に戻ってきているに違いない。

 どうしてこんなことに――シュメルヴィは慌てて立ち上がった。そして扉へ向かったものの、

「――うわっぁ!」

 ドアノブを掴む前に扉が勝手に開いて、シュメルヴィは思わず声を上げた。

「……本当に、子供みたいに大きな声を出してる」

 そう言ったのは、ドアの向こう側に立っていたゲイルだった。

「な、何だ……ゲイルか、びっくりさせないでよ、もう」

 一歩下がって、シュメルヴィは溜息を吐いた。と、ゲイルは首を傾げて、

「びっくりさせちゃった? そっか、ごめん……でも君の調子がおかしいらしいから、見にいかないとと思って……小屋に帰ってきたら、ビエラとヴェスティフだけがいて、それでまだ掃除も終わってなくて、話を聞いたら、君は濡れちゃったから着替えに行ったきりだって……二人が掃除で忙しいから、僕が見に来たんだ。大丈夫? 調子悪いなら、休んだ方がいいよ」

 ゲイルは微笑む。あの微笑み。

 しかしいまは、その絵に描いて量産したような笑みを、気にしている場合ではなかった。

 ――まだ掃除が終わってないの?

 ――きっと僕がさぼったせいだ。

 すぐに仕事に戻らないと、とシュメルヴィは扉へと向かった。勢いにゲイルが一歩下がれば、シュメルヴィは部屋を勢いよく飛び出し、廊下へ出る。

「シュメルヴィ?」

 ゲイルに名前を呼ばれるが、振り返らない。階段へと向かう。

「シュメルヴィ、待って」

 だが、二度目の呼びかけで、シュメルヴィは足を止めた。振り返れば、

「仕事に戻らないと! 僕のせいで仕事が終わってないんだ……」

 そう自分のせいなのだ。どうも自分が変だ、なんて言っていられない。

 皆に迷惑をかけている――悪いことをしているのだ。

 謝ったところで、仕事が早く終わる訳でもない。

「でもシュメルヴィ、君は休んだ方がいいよ」

 しかしゲイルは、

「……うん、二人から聞いたけど、本当になんだか子供っぽいね……変だよ」

 また、子供っぽい、と。

 変、ではあるかもしれない。自分自身でそう感じているのだから。

 だが「子供っぽい」と言われると、どうしても馬鹿にされているような気がしてならないのだ。

 もうすぐで十五歳の誕生日を迎えるというのに。

 シュメルヴィが眉を寄せていると、ゲイルは、

「どうしたの……? そんな変な顔して」

「変な顔って……」

 こちらは不愉快に顔を歪めているというのに。

 けれどもシュメルヴィは抑えた――いまは、仕事をしなかったことを申し訳ないと思うのに必死だった。

「僕は大丈夫、ゲイル……たくさんさぼっちゃったから、いまから二人を手伝いに行くよ、様子見に来てくれてありがとう……」

「だめだ、シュメルヴィ」

 と、そこでゲイルはシュメルヴィの腕を掴んだ。あの微笑みを浮かべたまま、シュメルヴィを見据えて、彼は言う。

「嘘はよくない、シュメルヴィ。そう教わったでしょ?」

 ――嘘、とは。

 けれども、責任を感じているのだ、だからこそ。

 これはきっと、悪いことではない。

「放してよゲイル……僕いかなくちゃ、こんなところでもたもたしてちゃいけないんだ。仕事があるんだ……みんなに迷惑かけたから、その分仕事をこなさないと」

 シュメルヴィがぶんと腕を払えば、ゲイルは驚いたような顔を浮かべた。けれども、すぐに、あの笑みを浮かべる。

 この『街』の、人間の顔。

「シュメルヴィ……嘘を吐くのは子供のすることだよ?」

 ――どうしてゲイルは、自分がこんなにも焦っているのに、責任感を感じているのに、気付かないのだろうか。

 ――そしてどうしてこんなにも……皆、馬鹿にするのだろうか。

「嘘を吐くとか、子供のすることだとかさ……」

 ついにシュメルヴィは我慢できなくなった。

 今日は、どうも、嫌な事ばかりが起こる。

「もう……みんなで僕のことを馬鹿にするの、いい加減にしてよ!」

 その大きな声は、建物内に響く。

 それでもゲイルは、

「シュメルヴィ、ほら、子供みたいだよ。そんな大きな声出して……落ち着いてごらんよ」

 そう、子供をあやすように近づいてくるものだから。そして、そうであるのに、その笑みはちっとも崩れないから。

 まるで――皆が人形に見えた。同じ顔をした、人形。

 ――怖い。

「こっちに来ないでよ!」

 シュメルヴィは、近づいてきたゲイルを、反射的に両手で突き飛ばした。

 ――普段なら、そんな「暴力」と呼ばれる子供同士の喧嘩に見られることなんて、誰もしないのに。

 ……ごん、と。

 鈍い音がした。

 突き飛ばされたゲイルが、壁に頭を打ちつけた音だった。ゲイルはそのまま、頽れる。少しの間、ぐったりとしていたが、やがて声を漏らし、ゲイルは自身の後頭部に手を伸ばした。

 と、その手は――赤くなっていた。

 血がついていた。血が出ていた。

「え……?」

 信じられなくて、シュメルヴィは声を漏らす。

 ――ゲイルに、怪我をさせた……?

 もう子供でもないのに、誰かを怪我させるなんて。

「……あ、頭を切ったのかな」

 だがゲイルは、何ともない様子でその血を見ている。本当に、何ともないような様子で。痛みなど、感じていないかのように。

 けれども。

 怪我をしたのは、事実なのだ。

 ――こんなのは、あり得ない。

「……ほら、シュメルヴィ、謝って。悪いことをしたら、謝らないと」

 ゲイルはゆっくりと立ち上がれば、そう言う。

 しかし、謝ればいいものではない――誰かを怪我させてしまったのだ。

 そんな、恐ろしいことを、自分がした。

「あ……あ……」

 シュメルヴィは、ただ受け入れられなくて、後ずさりした。

 ゲイルの手についた血は、どこまでも赤い。そしてゲイルは、怪我をしたにもかかわらず、微笑んでいる。謝罪の言葉を待っている。

 悪いことをしたら、謝るのが決まりだから。

「違う……僕は……」

 だがシュメルヴィは、もうそんなことを考えられなかった。

 ただ――胸が苦しくなった。首を絞められているかのような感覚。息ができなくなる。

 ――自分は一体、何をしているのだろうか。

「僕は……違うんだ……そんなこと――」

 その次の瞬間だった。

 また一歩、後ずさりしたシュメルヴィが、階段から落ちたのは。

「シュメルヴィ」

 相変わらず何ともない様子で、ゲイルに名を呼ばれる。しかしその時には、シュメルヴィの身体は傾いていて。

 遠のいていく天井、そしてゲイルの顔。背中を痛みが襲う。派手な音が、耳にうるさい。

 ――そうして、一階まで落ちて、シュメルヴィの意識はそこで途切れた。

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