03.ピオニー牧場

 急いだものの、結局シュメルヴィは遅刻してしまった。

 どうにも、足が重くて。『街』の中を歩いていたくなくて。どこか落ち着かなくて。

「シュメルヴィ、やっと来たか。遅刻だよ……昨日ものんびりしてたね」

 『街』の中、外への門に近い場所にあるピオニー牧場。小屋の中にシュメルヴィが慌てて入れば、そこにいた同い年の仕事仲間の少女ビエラに、そう言われてしまった。

 けれども、仕方がなかったのだ。どうも――変で。

 しかしシュメルヴィは理由を言わなかった。

 遅刻したのは確かで、悪いことをしたのだから。

「ごめん」

 悪いことをしたら、謝る。それが当たり前のこと。

 ――ちゃんと理由があるのに言えなかったこと、それから「昨日ものんびりしてたね」なんて言われたことに、もやもやが残るけれども。

 ビエラを見れば、ビエラも他の人間のように笑みを浮かべていた。と、奥を見れば、仕事仲間の少年達、ヴェスティフとゲイルも笑みを浮かべている。

 皆、同じ顔をしているように見えた。何故だろう、いつものことなのに。それに、皆同じ服装であるのも、変に感じる。

 どうして今日は、こんなにも「当たり前」が気になってしまうのだろうか。

「それじゃあ、今日は僕が朝の散歩当番だから、行ってくるね」

 と、ゲイルがベルの杖を持ち、ピオニー達を小屋から連れ出し始める。扉を開け、杖のベルを鳴らせば、ピオニー達はくるくる鳴きながらゲイルについていく。そうしてゲイルは、ピオニー達を連れて、小屋から出ていく。小屋の中は、空っぽになる。

「じゃあ、僕達は掃除をしよう」

 残されたヴェスティフは、ブラシと水の入ったバケツを持ってくる。それにならって、シュメルヴィもブラシを手に取り、水を満たしたバケツを用意する。そしてビエラは、空のバケツと、スコップを手に持ってくる。

 一人がピオニーを散歩に連れ出している間に、三人が小屋の掃除をしたり、餌の入れ替えをする――それがいつもの、やることだった。

 石床の部分を、シュメルヴィはヴェスティフと共に濡らしたブラシで擦った。そうしてフンや汚れを落としていく――これが思った以上に力仕事なのだ。ピオニーのフンは、こびりつくとなかなか落ちない。

「……そうだシュメルヴィ、今日は本当に大丈夫なの?」

 と、シュメルヴィが床にこびりついたフンと格闘していると、ピオニー達が寝床にしている砂の手入れをしているビエラが尋ねてきた。ビエラは、敷かれた砂の中にあるフンや汚れを見つければ、それをスコップで砂ごとすくい、バケツに入れていく。

「大丈夫って?」

 シュメルヴィはブラシで必死に汚れを擦りながら、尋ね返す……なかなか落ちない、こんなにも、力を入れているのに。

 ビエラは言う。

「昨日、倒れてたらしいし……また今日も、倒れたりしないのかなって」

「大丈夫だよ! 僕、元気だから」

 そうシュメルヴィが答えるものの、ビエラは顔を上げて、例の微笑みをくっつけたまま、

「でも、今日遅刻してきたし……昨日も変で、今朝も変で……本当に、大丈夫なの? ちゃんと仕事、できるの?」

 ……その顔は、決して心配しているから、という顔には、見えなかった。まるで、怪しむかのような。信用していないような。

 ぴたりと、シュメルヴィは手を止める。怪訝な顔をして、少し流れてきた額の汗を手で拭った。対してビエラは、いつもの顔をしている。いつもの顔。皆と同じ微笑み。

「……また僕が倒れたり、何かしでかすかもって思ってるの?」

 どうにも、そう言っているように聞こえた。

 ――ビエラはきっと、誰もが思うことを、言っていると、わかっているのだけれども。

 ――もし立場が逆なら、自分もビエラにそう聞くと思うけれども。

 それでも、どうにも……そう聞こえた。そう思っているような、気がする声。

 ……もやもやする。

「そうじゃないよ?」

 怪訝な顔をするシュメルヴィに、ビエラはわずかに首を傾げた――その動きがまた、妙に思えて。

「……」

 だが、シュメルヴィはそれ以上何も言わなかった。このもやもやをぶつけるように、また床をブラシで擦り始める……この汚れ、先程からずっと擦っているはずなのに、落ちている様子が全く見られない。

 なんだか、上手くいかない。

 ……もやもやはこのせいだろうか。

 ――きっと、そうに、違いない。

 シュメルヴィは、そう思うことにした。そう思えば、このもやもやも、きっといくらか落ち着くだろうから。

 原因がわからないのが、一番悪いのだ。だから、このせいにしてしまえば。

 ――もっとも、掃除を始める前から、もやもやはあったけれども。

「……」

 そう思ってしまうと、もやもやはより、もやもやとした。

 何なのだろうか、これは。今日は本当に、どうしてしまったのだろうか。

 けれども――元気なのは、間違いない。こうして掃除をしているのだから。

 大丈夫。何も、問題ない――。

 ……と。

「……シュメルヴィ、やっぱり変じゃない? 大丈夫?」

 再びビエラが。まるで幼い子供が、からかってくるかのように。

 一度、大丈夫だと、言ったのに。大丈夫だと、いま信じようとしていたのに。

 ――どうして、邪魔をするのだろうか。

 はあ、と、シュメルヴィは深く溜息を吐いた。

「……もう、大丈夫だって! 何か文句あるの? 僕、元気だよ?」

 その声は、少しだけ小屋の中で響いた。

 すると、自身の声が、自身の耳に刺さってくるようで、はっとシュメルヴィは我に返る。

 どうしていま、こんな声を出してしまったのだろうか。必要ないのに。

 ――何かが、変だ。どうも。

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