匠の告白

無事に退職できたので、しばらくゆっくりすることにした。

浮かれた気持ちにはなれないので、匠との旅行はもう少し先で、と返事をした。



一時期、髪の長さが中途半端で、不便やら面倒くさいやらで苛立ちがピークに達し、夫にサディスティクな態度を取っていた。

が、匠と出会い、絶妙なバランスが生まれてからは夫に対しても落ち着いてきた。


夫は、鈍感でステレオタイプな人間だ。

だから、私の苦悩への理解は望めない。

今までは、”夫に”理解してほしいという気持ちが、怒りに変わっていたのだ。

それを匠が肩代わりしてくれることで、シンプルに、夫の善良さを見ることができるようになった。

髪への執着を除いて。



断捨離し、掃除をして、食事を整える。


自分は、家事に喜びを感じるような人間ではないと思っていたが、一つ一つに達成感があって充実した。



専業主婦



この四文字も、自分にとって恐ろしい呪いだった。

奴隷の現代的な言い換えかと思っていた。


ところが、短期間とはいえ、専業主婦をやってみたら意外と大丈夫だった。


働いていた時は、家事の、マイナスからゼロになるだけの作業が嫌だった。

作っては消えていく料理、何もしていないのに汚れていく部屋。

やってもやっても、崩されて、また明日もやらなくてはいけない賽の河原。


そんな風に思っていたが、時間があるなかで家事をすると、楽しみが生まれてきた。

特に、料理。

日々のごはんなんて、とりあえず食べれればいいやと思っていた。

それが、自分の食べたいものが自分でも作れるとわかって、楽しくなってきたのだ。


よく、職場の奥様から「ちゃんと食べてる?」と心配されていたが、それは「まともな食べ物を食っているのか?」という意味だったのだと、初めて気づいた。


♢♢♢


家が整ったことで、夫は喜んだ。

俺だって奥さんがそうしてくれたら喜ぶよ。


料理もおいしい、おいしい、と言って食べる。


自分は器用なタイプで、仕事も、家事も、芸術も、全般人並み以上にできた。

運動神経も悪くない。

とはいえ、最高レベルにはいかない。

そういう人は、子どもなら習い事、大人ならすでに訓練してきた人だ。

そこまで頑張るほど、それらを好きではない。

”センスがあるね”だけでこの歳になってしまった。


料理も、今ハマっても、習ったり、趣味にはしないだろう。

習い始めれば、時間をとられる。

料理が、自分の人生グラフの大きな割合を占めるのは納得できない。


ただ、今回は、料理に興味が湧いたことで、夫の食べたいものを作ろうとか、夫の好みのものを買おうという意識が芽生えた。

そんな一般的な妻としての優しさが、自分の中にあると知ってホッとした。


匠には、作ってあげたいとは思わない。

手作りを食べたいと言われたら、なんか嫌だ。

もしかしたら、外食ばかりで不健康かもしれない。

だとしても、自分が世話を焼き始めたら不倫になる気がする。



ある日、食事はどうしているのかと、匠に聞いてみた。


「え? 普通に自分で適当に作って食べてるよ」


何言ってんだこいつ、みたいな反応をされた。


「立場的に体壊してる場合じゃないからさ、食事も運動も、気をつけてるよ」


たしかに、匠の体にはきちんと筋肉がついていた。


「むしろ……美春、太ったんじゃない?」


その通りだった。

動かない上に、自分の作ったごはんが美味しいという自画自賛過食で、どんどん太っていた。

レディースクリニックの医者からも、痩せるように言われていた。


「ファスティング、やるといいよ」


何その意識高い単語。


「絶食するんだけど、その前後に食事を見直す期間を一週間ずつとるんだ。思ったより、食べなくてもやっていけるんだな、ってわかるよ」


へー。

たしかに、無駄に”食べなきゃ死ぬかも”みたいな切迫感がある。


「しばらく家で休もうと思ってるから、やってみるよ」


そう答えると、匠が動画のURLを送ってくれた。

プロがファスティングの仕方を教えてくれている動画だ。


自己研鑽系の取り組みは好きだった。

痩せたい気持ちもあるが、まずは体を整えたかった。



「俺は会社が大変で、奥さんもいなくなった時期は本当に不健康な生活しててさ。それが落ち着いてからファスティングやってみたけど、人生変わるよ」


「え? そんなに?」


「なんかね、体って本当にうまくできてるんだな、って思う」


「そうなんだ」


今まで、健康なんて二の次だった。

順位をつけるなら、仕事がダントツで、次にギリギリ家族とお金。

健康はランキング外だ。


「ファスティングして、痩せてから美春に会えたのは良かったよ」


「ふーん、そうなんだ。そんなに太ってたの?」


「10キロ痩せた」


「そんなに?」


当時の画像を見せてくれた。


「たしかに太ってはいるけど、そこまで変わんなくない?」


「この時に出会ってたら付き合ってた?」


「中身が同じなら付き合ってたんじゃない?」


「中身かぁ……自尊心は低かったな」


「匠にもそういう時期があったの?」


「やっぱり、離婚は辛かったね。元嫁と話は通じないし、子どもには会わせてもらえないし。……家庭をうまくやれなかった俺が言うのもなんだけど、彼女はいい母親じゃないと思う。本当は、俺が引き取りたかったけど、当時は時間が取れなかったから……。いっそ、ちゃんと育ての親ができる人にお願いできる世の中になってくんないかな、って思う。子どもたちのために」


匠の結婚生活の話になったのは、これが初めてだった。


「……子どもが生まれる前は、いい奥さんだったの?」


「今思えばだけど……子どもがいないときは、可愛い人だったんだ。だけど、それは演技的……っていうか、なんていうのかな、社会でうまくやってくための人格だった、って感じ。それが、結婚して四六時中一緒にいるわけだから、パターン通りじゃない場面も出てくるわけで。何かあると、こっちは理由が知りたくてきいてるだけなのに、責められてるように聞こえるのか、パニックになって、ヒステリーを起こすようになったんだ」


「ああ、そういうおばさん、職場によくいるよね」


「仕事は決着のつけようがあるけどさ、家庭でそれはしんどいよ。子どもが産まれてからなおさら酷くなって。俺も生意気だったから、俺なら彼女をなんとかできると思ってたんだよね」


匠はため息をつきながら言った。


「……もう元奥さんに愛はないの?」


「そうだね。思い出しただけでまだ身の毛がよだつから」


「子どもに対しては?」


「会ってないから……本人たちからしても、誰このオジサン、だよね。こっちから一方的に愛着もたれても困るだろう……って思うんだ。あしながおじさんとしてやってくつもりだよ」


匠はしみじみと言った。


巡り合わせとは恐ろしい。

もう少しだけズレていたら、もっと違う展開があったかもしれないし、逆にどんなに辛くてもそれがベストだったかもしれない。


「でも、まあ、それがあったから美春に会えたんだし、だからそれはそれでいいかな、って」


「どういうこと?」


「養育費を払い込んだ後だったんだ。少し疲れてて、カフェに寄ったら美春がいたんだよ」


「傷心だったんだね」


思わず笑った。



「……いつも中学の同窓会、来なかったけど、なんで?」


「私は転校生だったから、なんかね、そこまでみんなと友達って感じじゃないんだ。親しい友達とは、別で会ってるから」


「そっか。中学の同窓会のあと、高校の同窓会があったんだ。元嫁は、高校の時の彼女で、その同窓会で再会した。で、そこからまた付き合い始めて結婚したんだ。もし、中学の同窓会で美春が来てたら、俺は美春に告白してたし、もしかしたら結婚してたかもしれない」


匠は、こちらを探るように見てきた。


「それは出来すぎた話だよ。匠がロマンチックなだけだ」


「……信じてもらえないかもしれないけれど、俺は中学の時に美春が好きだったんだ。でも告白したところで付き合えるとは到底思えなくて。その後、俺はそこそこ可愛い女の子に告白されて、付き合っちゃうんだ。……なんか、言ってて今気づいたけど……歴史は繰り返されるもんなんだね」


匠は笑って言った。

そして続けた。


「だから、あのカフェで会ったときは、必死だった。彼氏がいようが、旦那がいようが、構うもんかって。きっと最後だ、と思ったから」


「……必死には見えなかったよ」


「じゃあ、うまく隠せてたんだね。こんな形だけど、美春と付き合えて、嬉しいよ。美春の幸せが一番だから、旦那さんとの邪魔はしない。まあ、旦那さんからしたら、何言ってんだよ、って話だけど」


匠は複雑そうな顔をした。



実は、匠に長らく思いを寄せられていたことを、嬉しいと思っていない自分がいる。


今まで、自分が知らない間に好意を寄せられていたことが何度もある。

自分の知らない間に見られていて、話をされていて、妄想されていることが、怖い。


友人の好きな男から好かれるのは面倒だったし、一目惚れされたら防ぎようがない。

”あの時好きだった”系も、匠が初めてではない。


誰かに、そういう話をしたことはない。

話してしまうと、モテ自慢をしたと思われ、まして「簡単に男と親しくするからだ」と説教をされる。


そういえば、女友達同士でもそうだった。

他の女友達と仲良くすると拗ねられるか怒られた。

職場でもそうだった。

みんなと仲良くしていると、必ず”◯◯は◯◯だから、気をつけるように”と、忠告を受ける。


自分は、みんなと仲良くしたいのに、なぜかそれが良しとされない。

周りの複雑な人間関係に巻き込まれて、悲しい気持ちで距離をとらなくてはならなくなる。



「……ごめん、重いかな、俺」


「あ、いや、違うんだ。私のこと、色々考えてくれてありがとう。変な関係だけど、匠がいてくれて、助かってるよ。一時期、夫婦関係が悪かったから、匠のおかげで自分を見直せて良かったんだ。だから、まず、これからもこうしていられたらいいな、って思ってる……」


匠は、「そうだね」と穏やかな顔で言った。



匠に、好きだとか、愛してるとか言われたら、大変だ。

”お前も結局、今までの男と同じ、普通の男なんだな”と思ってしまう。


頼むから、行かないでくれ……

匠には、ずっとそばにいてほしいんだ……


お腹に、ねじれるような痛みが走った。

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