美容室

前回、いつ美容室に行ったかなんていちいち覚えていない。

短い髪がぴょんぴょん出てきて、まとめてもボサボサに見え始めたら美容室を予約する。


その美容室は10年来の付き合いだ。

結婚して、新居の近くだったからという理由でそこにした。

ヘアサロン『リュミエール』。

店主の男性が一人でやっている。



独身時代に通っていた美容室は、地元では大手だった。

担当の男性美容師と話が合うこともあり、彼が店舗異動になって自宅からどんどん離れて行っても付いて行った。

通い続けて7年後。

彼はその美容室を辞めて、地元で独立することになった。

前々から、仕事へのプライドと、その美容室の仕事のあり方にミスマッチがあって、彼は不満そうだった。

自分の腕を磨く姿勢や後輩指導への考え方を聞いて、仕事観に好感を持っていただけに、本当に残念だった。



独身の頃は、パーマをかけたりもしていて、1ヶ月半くらいで美容室に行っていた。

美容師とは下手して、友人知人よりも定期的に会っていることになる。

だからこそ、話が合う、一緒に過ごしてストレスがないというのは大事だった。



彼がいなくなったタイミングで、今の美容室に変わった。

こじんまりとしたお店に、一組しかいないわけだからそれこそ気兼ねなく話せる。



自営業者だから、仕事の話はいくらでもあった。

店主の修行時代、都会での美容師時代、地元での開業期など、様々聞いた。



仕事の話は楽しい。


仕事の仕方に人が出る。



日本の仕事の作りは、案外個人主義だ。

やり始めればどこまでも仕事はある。

自分でどこまで仕事としてやるか決められる分、性格と仕事と人生がより合わさって「その人」になると思う。


まして、自営業者や会社経営者なんて、「仕事=その人」だ。

仕事ができれば人生が豊かかと言われればそれは別物だが、今世で自分の人生をかけられる仕事に出会えたのはすごいことじゃなかろうか。



♢♢♢



その日も、いつも通りリュミエールへ行った。



「今日はどうしますか?」


「いつもの通り、そろえるだけでお願いします」


 

店主には、旦那の髪フェチについて話してある。



「だいぶ伸びましたね」


「ええ、もう、うんざりですよ」



店主は櫛を通そうとするが、絡まりがあるともうそこは切ってしまう。



「この間、友人が美容室を変えたんです。担当の美容師さんが独立して、そのまま着いて行って。でも、その美容師さん、独立してからオーダーと違う風に仕上げてくるようになったそうなんです」


「そうなんですね。自分流にやってみたい美容師なんですかね」


「仕上がりに納得できないのもそうですが、自分の注文をちゃんと聞いてもらえなかったことが不満だったみたいで。まあ、無理なこともあるんでしょうけど」


「いや、そんなことないですよ。大体なんとかなるんで」


「え、そういうものなんですか? 私、人生最初の美容師さんの時は、満足できないことが多かったんですよね。元々、髪なんかに興味がないんで、オーダーも何もないんですよ。で、お任せにすると微妙で。注文つければいいんですけど、わかんないんですよ、そんなの。まして、そんな私が手入れやアレンジをするわけがないのに、ワックスでこうとか、ああとか。そんな手間をかけなきゃ良くならないとかじゃなくて、”切ったら良くなる”くらいにやってほしいんですよ」


「美春さんの性格ならそうですね」



店主は笑った。



「いいなぁ、そういう相談をしながら、思い通りに髪が出来上がるのって。私なんて、そんな年6回の楽しみも失われて、毎日気に入らないこの髪型で過ごしてるんだから、人生損してますよね」


「まあ、私も、技術の10分の1も披露してないですね」



そう話しているうちに、カットが終わった。



「何も変わってないように見えますが、切ってあります」



椅子の周りの落ちた髪を見れば、ちゃんと仕事がされた形跡はある。



「切ってもらった後はやっぱりまとまりがいいし、ボサボサ感無いので、美容室に行くと違うな、とは思ってますよ」



それは本当だった。

自分とこの店主にしかわからないが。



夫も、わからないだろう。



あれだけ髪にうるさい夫だが、夫は”髪の長さ”だけが大事なのだ。

髪が少しでも短くなるのが嫌なので、むしろ美容室には行ってほしくないという。

死んでほしいくらいムカつく話だ。



シャンプーをしてもらい、最後に整えてもらって店を出た。



♢♢♢



『夜に美容室に行くのってもったいなくない? せっかく整えたのに』


そう夫に言われて、知らんがな、と思った。

自分が美容室に行くのは不潔感を無くすためだ。


『今回の俺の髪型どう?』


美容室に行った夫に聞かれて、これもまた知らんがな、と思った。

ボサボサよりはいいが、些細な違いなど、誰も見てない。

こちとら、そんな些細なことを決める喜びも楽しみも無いんだから、失われた感性に問われても困る。




家に帰り、夕飯の支度に入る。

コンロに髪が垂れたら危ないから当然髪は結い上げる。

美容室でやってもらったことがすぐ台無しになる。


それでいいんだ。


髪なんて、どうでもいいんだよ。

不便じゃなく、相手に不快な思いをさせなければ。


私は今不便だし、何より自分が不快だけど。


こういう苛立ちが、髪のみにおさまらないことは分かっている。

究極、夫に興味がなくなっているのは、この苛立ちの転嫁だ。


俺がこの夫婦生活の維持のために行っている自己否定の苦痛を、あいつはわかっていない。

夫婦でありたい気持ちと、本当の自分を理解してもらえないジレンマから起こる殺意。

それは単に、夫への仕返しのような単純なものではない。

夫と自分、両方に向けられる憎しみだ。


太っている自分が嫌だ、老いていく自分が嫌だ、と同じように、女らしい見た目の自分が嫌だ。

鏡を叩き割ってやりたい。


時々、そんな凶暴な自分が躍り出てきて、内側から破裂して死にたくなる。

この髪さえなければ、自分の人生は概ね幸せだった。

女に生まれたこと自体は、今世は諦められた。

背が低いことも、胸が大きいことも、声が高いことも、生理がくることも、先天的なものは仕方なく受け入れた。


だが、髪は違うだろう。




髪は、柔らかい割に艶もボリュームもあり、天然の栗色は誰からも綺麗だと褒められた。


可愛い系女子でない割にはモテたんじゃないだろうか。

お母さんみたいな優しさ、しっかり女子、大人のおおらかさ、ヤれるかもと感じさせる親しさ……大体そんな感じだったろう。


そうじゃない私を好きになってくれたのが夫だった。


厳しい女


私は、女としては、厳しい女なのだ。

この人なら、一緒にやっていけるかも。

そう思って結婚した。


厳しい女は、外では生きていけない。

潔癖で、隙がなく、情がない。

こっちが意図しなくても、誰かを死なせてしまう。

だから、猫を被らずにいられるのは、やっぱりこの夫なのだ。



匠からメッセージが入る。

デートの誘いだ。

いつでもいいと返事をする。


今、何してた?

と聞かれて、オムライスを作ってると返信する。

夫の好物だから、と添えて。


今度、俺にも作ってよ

と、来た。

嫌だよ面倒臭い。

ケチャップライスがついたフライパンを洗うのが、と返信する。



夫から電話が入る。


「今から帰るけど、何か買ってくものある?」


「何もないよ」


「今日は甘いものが食べたいから、何か買っていくね。何が食べたい?」


「何でもいいよ」


大体毎日、こんな会話だ。



帰宅した夫は、私の周りをウロウロしながら「今日、会社でこんなことがあってさ……」と話し始める。

大体が「だから何なんだよ」と思わせる、つまらない話だ。

その点、匠の話はやはり面白い。


自分の頭が省エネモードに入り、夫のことはテレビにバトンタッチだ。


「あ、今日、美容室どうだった」


一番くだらない話題になり、さらに不快な質問が続くのだった。

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