【KAC2024①】髪の長い女
千織
私が髪をお尻まで伸ばす理由
美春には三分以内にやらなければならないことがあった。
それは、お尻まで伸びた髪を乾かすことだ。
なぜなら、三分後には、不倫相手の匠が迎えに来てしまうから。
匠はいつも時間に正確だ。
マンションの玄関付近に路駐して、待っていてくれる。
髪は、3分で乾かせるところまでにして諦めなくてはならない。
もちろん、びしゃびしゃではないが。
この髪の長さだと、最低20分はドライヤーの時間が必要だ。
だが、せっかちな私は、せいぜいドライヤーは10分が限界なのだ。
まずは10分でできる限り乾かし、あとは化粧や身支度をしながら自然乾燥をし、出かける直前にもう一度ドライヤーをかける。
それでも、完全には乾かせたことはない。
結局、今日も乾かしきれずにうちを飛び出す。
不倫相手に会うにも関わらず、大して髪をとかすわけでもない。
車に飛び乗ると、早速車は走り出す。
匠は中学の同級生で、会社経営者のバツイチ。
二人の子どもの養育費を払っている。
結婚にはまだ懲りているようで、お互い何かと都合が良かった。
今日はちょっと遠目のレストランで食べ、ラブホに寄って帰ってくる。
お昼のお決まりのデートだ。
助手席で髪を結い直す。
絡まりがあって、もう手櫛すら通らない。
なんでこんな面倒臭い髪をしているかというと、夫が髪フェチなのだ。
私はこれまで、髪はボブくらいにしか伸ばしたことがない。
夫と付き合い始めたときに、「ロングヘアが好きだから伸ばしてほしい」と言われて伸ばし始めた。
ロングヘアでの生活は大変だった。
絡まるし、服に擦れるのが気持ち悪い。
カバンを肩にかけると髪が巻き込まれる。
椅子の背もたれに挟まるのも嫌だった。
寝る時は邪魔だし、あっという間に床が抜け毛でいっぱいになる。
それでも伸ばしたのは、結婚式があったのと、ヘアドネーションしたかったからだ。
いよいよヘアドネができる30センチを越えた長さになり、ボブに切ろうとしたら、夫に泣きつかれた。
「なんでもするから、切らないでくれ」
どういう意味か、わからなかった。
たかが髪じゃないか。
まあ、ヘアドネは諦めたとして、肩くらいまでは切りたい。
そう話すと、夫は激しく落ち込んで、「今度はいつ美容室に行くの?」「何センチ切るの?」としつこく聞きながら、メジャーで今の髪の長さを測った。
結んだゴムから測ると、すでに50センチあるにも関わらず、「まだ短い……」と言って、あからさまにため息をついた。
ロングヘアの不便さに私は元々嫌気がさしていたのに、夫の女々しい要求にいよいよ苛立った。
一度、黙って50センチあった髪のうち、10センチ切ったら、夫は口をきかなくなった。
それは、私への攻撃としてではなく、ショックすぎて、口がきけなくなったのだ。
目はうつろになり、ため息ばかりつく。
何か言うとすれば、「どうして切っちゃったの?」「俺の何がいけなかったの?」「10センチ伸ばすのに、また1年以上かかるのに……」と、意味不明なことばかり言う。
ちなみに、今まで美容室に行った後、知人、友人から「髪、切った?」と言われたことは一度もない。
50センチが40センチになっても、普通はアハ体験くらい気づかないものだ。
それからというもの、私は夫の髪へのこだわりをまともに考えるのが面倒になり、髪を伸ばすことにした。
美容室は2ヶ月に一度で、ただ揃えるだけだ。
そうして現在の髪の長さは、お尻が隠れるくらいまでになった。
その分、「なんでもやる」は実行してもらうことにした。
家事は、私は料理だけ。
あとは夫がやる。
夫のキャッシュカードは私が自由に使えるし、趣味で出かけることも自由だ。
すると、私のイライラはどんどん募り、暴言が増え、ときに暴力も振るった。
謝ったことは一度もない。
さすがに不倫は止められるだろうと思ったが、「髪を伸ばしてくれるなら構わない」と言われたので、匠と不倫をしている。
堂々とマンション下に迎えに来られても平気なのはそのせいだ。
匠との出会いは偶然だった。
私はヘアアレンジなぞに興味はなく、いつも一つ結いだった。
だが、これだとおばさん臭くなる。
だから、普段は仕方なくおろしているのだ。
とはいえ、仕事中や作業の時はやはり邪魔だ。
その日、早く済ませたい仕事があり、カフェに入ってパソコンを開いた。
髪をまとめようとしたら、ヘアゴムが無い。
私のイライラは頂点に達した。
わざわざ買いたくない。
ヘアゴムなんか。
そんなとき、匠に声をかけられたのだ。
「やたら髪の長い人だなと思ったら、君だったのか」と。
昔話に花が咲き、夜飲みに行き、そのままホテルまで行った。
後悔とか、罪悪感とか、不倫の高揚感があるのかと思いきや、そんなのは無かった。
普通の奥様なら、真面目で、いい人で、酒も飲まない、女遊びもしない、ギャンブルもやらなければ不相応な趣味もない、勤めがしっかりしてるこの夫が羨ましいとすら思うかもしれない。
だが、私の内心は晴れることはない。
私は、体は女でも、中身が男で、男が好きなのだ。
この長い髪が私を女として縛り付ける限り、私の苛立ちは消えない。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます