──幕間 いつかの夜のこと──

花蛇乙女


晴れやかな夜だった。

月が出ている。

自分のところだけ影が濃いようだった。不吉のように。


コレハジブンジャナイ。


違っている、と思った。

ちっとも本当の自分じゃない。

探さなければ、見つけなければ、取り戻さなければ。


月の明るみに向かって歩いていく。

柔らかな歌声が聞こえた。

廃墟の町が見える。


かつては気配がたくさんあって守られていた場所だった。

自分は入れなかった。

明るく照らされているあそこなら本当の自分が見つかるに違いない。


崩れた壁の裂け目へと吸い込むように引き寄せられた。

薄紙のような影たちが、歌声の中で夢遊病のように行き交っていた。


歌を辿ると甘い匂いも漂ってくる。

町の中心にあった枯れた噴水に腰かけて花の乙女が月に歌っていた。


彼女は満開を迎えており、花びらの奥の瞳は潤んで、差し伸べた腕の先に下りてこようとしている誘惑された月を見詰めていた。


満開の花の瞳、香気を発する肢体、甘い甘い声。

あれこそ本当の自分に違いない。

見つけた、本当の自分はあそこにいる。


闇と影を伝って、乙女に忍び寄る。

乙女の悲痛な悲鳴が上がった。

月が慌てて空に逃げ帰っていく。


「あぁ、」

全身から匂い立ち香る自分を感じて心から満足する。

吐息までかぐわしい。

なんて美しい生き物、これが自分。


とてもお腹が空いていた。逃がした月の生き血に乾いて、蛇のしっぽが不満の唸りをあげる。

これが、本体。


こんな醜い蛇が本体だなんて、こんなのちっとも本当の自分じゃない。

本当の自分は、月を欺いて血を残らず啜り取る花蛇乙女なんかじゃない。

歌を歌うしか能がなくて、すぐに狩られてしまう弱々しい存在。


満足は一瞬も長続きしない。

いつもそうなのだ。

不満に花が萎びてゆく。


取り替えようチェンジリングか。名すら持たぬ哀れな生き物」

黒い衣の男が立っている。


先ほどの歌に囚われていたのだろうか。

──わたしの歌に。予備の獲物か。

「名前なら持ってる。わたしは花蛇乙女ハルシラ」


──本当にそうだろうか。


迷う。お腹が空いて、喉が乾いたけど、でもひょっとしたら本当の自分は、まるで揺らぐことがないように見えるこの男かもしれない。

自分が自分であると一度も疑ったことがないような。


男は何もしてこようとせず空を見上げた。

「もう月は下りてこないな」

軽やかな足取りで近付く。

男が手に網を持っているのに気がついて、足を止めた。


あの網が不吉であることを知っている気がする。

あれに捕まって、良くない目にあった。

どろどろで、臭くて。


殺されるものにはなりたくなくて、取り替えようとしたけれどダメだった。

漁師は魔術師の成れの果てだから。

あれらは手が出せない。

でも、覚えているのは自分じゃない?

花蛇乙女は海に近付いたりはしない。

青腐りの漁師とは出会わないはず。


男が自分を見つめているのに気がついた。

木の……、仮面? いや、木人?

月が行ってしまったから、暗い。

「存在を、乗っとる……か。別の選択肢としてはどうだろう?」

するすると仮面から伸びた蔓が答えた。

「わからない。何も見えない。でも次の柱姫がやって来る」

どこか遠くから響いてくるような、くぐもった女の声。

「……可能性は多く残しておこう」


混乱する。

網を持っているのは、漁師。でも、これは漁師じゃない。

これは何者?

何者でもないものにはなりたくない。

何者でもないことは、恐ろしい。恐ろしい。恐ろしい。

魔術師? 神?

這って逃げようとする蛇に網が覆い被さる。


チリリンと鈴がなった。

「月を捕まえるのでは?」

「逃げてしまった」

「しばらくは捕獲できる小粒の月はないと言ってませんでした? ──おや、これは。せっかく見つけた花蛇は食べられてしまったんですか、希少だったのに」

「これで別の理が作れるかどうか、試して見ることにしよう」


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