足元の黒い水面に何かがうごめいているのが見て取れた。

「水の下は光が届きにくい。いだ夜でも凶悪なものが潜んでいることがあるから注意しなさい」



夜藍やあい色のマントをすっぽりかぶせられて連れ出された夜。眼下に見えるのは、でこぼこした月が照らす海と断崖。


薬女の彼女と出会った草原と森はどこにも見当たらない。

魔術師の家は断崖をくりぬいた場所にあった。

月明かりがあっても岩が影になって遠目からは出てきた入り口もよくわからない。


「あまり顔を出しすぎないように。柱姫は目立つ」

そういう魔術師も墨色のフードマントをつけて、馬をあやしている。

わたしのせいで落ち着かないそうだ。


空を歩く馬はもともとは海からやって来たものが居着いたもので馬銜はみをつけているのは魔術師のものだと主張する意味もある。

昼間はヨナの飼っている猫だ、と説明された。


空を馬に乗っていくことには違和感がない。夢だから。


断崖の先は草木のない岩地で、そのまた先に大きな建物の影がある。

「キナ=ハイ城だ。今夜のように月のある静かな夜はあそこにある」

ふむ、月の夜に現れるご近所さんか。

「中に一人老人がいる。ドブリーと名乗っていた。ベルローザはドードーと呼んで面白がっていた」

アトリの表情や声音からはご近所さんをどう思っているかよくわからない。なんとも思ってないのかも。

ただ、わたしに物を教えようという熱意は感じる。


「ベルローザはあの城の《闇生あんじょう》だ。相当食い意地の張った這行型の竜だが、魔術師と話せる程度の知能はある。昼の姿、日世はない」

人語を話す竜も近所にいる??

とりあえず頷いておくと、補足してくれる。


「夜にだけ存在するものを《闇生あんじょう》という。ベルローザはこの辺りで一番大きな闇生類あんじょうるいだ。珍しい」

月を仰ぐ。

「魔術師がいる比較的安定の高い地域では大型の闇生類は現れて来ない。月明かりが確保されるから。不安定な場所は月も寄り付かない。ここらに生息するとしても普通ならば水棲型か地中型、できるだけ光の届かない場所をねぐらにする」


竜がいるのか…まあ、いるだろう。魔術師がいて空を歩ける世界ならば。

「闇生のものは、月の光に反応した姿を《光化こうか》という。あの城のことだ。姿が変わるだけで別人格は現れない」

私見だが、と続ける。

「ドブリーという老人は考えるにベルローザの胃袋だ。彼女は並々ならぬ食い意地の持ち主だ。強い欲望に刺激されてあのような独立した姿をとったのだろう。わたしを正面から襲ってきたからな……」

竜は彼女……なのか。


「魔術師はこの世界の第一位の存在だ。ベルローザですら、魔術師を正面から襲わない分別くらいはある。胃袋の暴走はかなり特殊な例だ」

なにを好んで竜と自分を襲ってくる胃袋だのの近所にすんでいるのだろうか。


「わたしはあそこに現れた。ベルローザはその上に現れた。ただそれだけのこと。自分の生じた場所が一番変容の危険の少ない安全な場所だとされているそれにベルローザは魔術師にとっては大した危険ではない。魔術師はこの世界の優性種だから」

疑問を口にすると、そう説明された。

「町も近くにあるおかげで月はこの辺りをうろつくのを好む。月照が頻繁はんえいだからベルローザはほとんど城の姿でいるしかない。別形態をとっているとはいえ、ドブリーも所詮は胃袋。城の中でしか動けず、外に出てわたしを襲いにはやってこない」


月は少々形は歪んで見えるものの、ごく真っ当な月らしく見える。選り好みしたり徘徊癖があるようには思えず首を傾げる。

「今夜の月は落ち着いている。当てにならないのはもっと小粒の月たちだ。光が足りないと闇生類に追い回される」

それは星のことではないのだろうか。今夜の空には見当たらないが。


「違う」

否定される。

「星は、この世界にないの?」

「ある。不吉の前兆とされる。我ら魔術師に与えられた世界からの警告と唱えるものもいる。わたしは見たことがない」


「不吉ってなに?」

「破壊霊だ。我々魔術師が滅ぼさなければならない。

夜に生きるものは世界の過酷を知っている。世界は己だけを愛していて、その内を生きるものには無関心だ。だが、我々魔術師の世界への忠誠と義務は常に果たされる。我々があらねば、世界は生き延びることができない」

厳しい口調に気圧されるものがある。

胃袋が擬人化するほどがつがつ飢えている竜より忌まわしい不吉な存在とはなんだろう。



問いを深めたかったが、いつの間にか白いもやの広がる陸地に着いて、馬を降りて静かにするよう促される。

もやだと思ったのは、鉄色の幹の木々が髪を生やすように垂らしている銀白色の細い糸葉だった。

あちこちに白い幕が掲げられているようで、地面の上もふかふかと真っ白に覆われている。


踏みしめて見たかったが、じっとしているように言われる。

「これは大型の捕食専門だからあまりわたしたちに興味はないだろうが、刺激しないに越したことはない」

魔術師は白い地面に足をつけないよう気をつけて進み、木の根元を検分しているようだ。

目当てが見つかったらしく、腰にくくりつけていたローブと同色の袋から小さな熊手を取り出して根元を掻く。


用が済むとさっさと馬に乗ってそこを離れる。

振り向くと白いふわふわの陸地は大分広範囲に渡っている。

「大型って竜なんかのこと?」

「狙いは月だろうな」

「月を食べるの?!」

「美食とされている。魔術師でも追いかけているものがいるらしい。不滅の効果があると信じて。中々狡知こうちに長けて捕まらないらしいが。

わたしは興味がない。光は影響する力はあるが、所詮移ろい逃げ回る夜のものだ」

「月まで食べられないように逃げ回るなんてとんでもない世界ね」

「月よりもはるかに極上で最上の美食が柱姫とされている」


……。

「わたし?!」

「夜のものは雑食だ。光のない夜は常に乱闘と捕食の場になる。凶悪なものほど光が苦手なようで今は静かだが。柱姫は世界に歓迎され愛されるが、夜のものはその性に従ったもてなししかできない。知性のあるものもいるが、見極めは難しい。わたしの庇護からは離れぬように──夜に人であるのは、魔術師だけだ」

夢で死ぬとわたしはどうなるのだろう? お婆は何か言っていただろうか?


「もしも、だけど死んだら目が覚めて元の世界に戻れる、なんて展開はないかしら…?」

「ないと思う。この世界にやって来ているあなたは、あなたの最もか弱い核のようなものだと聞く。本来のあなた自身よりこの世界はずっと儚いから。それは切り離されている。繋がっていたならこの世界に入れない。だから多分、死ぬ」


体温が下がるのを感じる。わたしは戻れないのだろうか。切り離されているなら、黒のお婆ですらわたしを見つけられないのでは?


「安心していい。魔術師にとって夜のものは問題にはならない。厄介なのは風と嵐だ。遠い場所から未知を運んで来るのに加えて、何をどう変えていくのか分からない。

激しいものだと地形と生物全てを様変わりさせる。かと思えば、一部だけを液体化させたり硬化させたりひねくれた性質の風もある。油断ならない」



魔術師の岩屋に帰りつく。

袋を覗かせてもらうと、白いザラメのようなものが入っている。

「ヨナの土産だ。魔術師は害にならないものを見極められる」

魔術師は靴の底を払うように言い、馬のたてがみや蹄も注意深く見てから奥に連れていく。


「家に良くないものを持ち込まないよう用心深くなりなさい。もう一度昼になればもう少し自覚するだろうが、この世界は変容する」

念を押される。

「昼は平和な世界だ。だが子犬やうさぎに会っても、中天が過ぎたら別れなさい、夜は危険な猛獣に変わっても追ってこれないだけの距離を考えて。食事は必ず明るい内に終えなさい。夕時の変容の時間帯は避けなければならない。胃の腑から逆に食い殺されてしまう。ヨナがよく気をつけてくれるだろうが、それでも彼女は昼のもの。夜を知らない。あなた自身が注意深くなる必要がある。いくらわたしが魔術師でも、手遅れな事態になればしてやれることはない」


滔々とうとうと説く声が潮騒と混ざるせいか、目蓋まぶたを重く感じる。

夢の中で眠たくなるなんて。

まばたきして眠気を散らすのだか、上手くいかない。


魔術師は不思議そうにわたしの様子を眺めたが、合点したように「ああ」と声をあげる。

そのまま寝台のある別の部屋に連れていってくれる。


寝台というか、只の石の台だが、一応毛布はある。

わたしが占有して困らないのか尋ねると、魔術師は眠らないという返事だった。

「じゃあなぜ寝台があるの?」

「魔術師は皆,柱姫に備えている」

そのまま眠ってしまった。

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