来訪 一日目

波止場の森

遠くから潮騒が聞こえる。


陰った森を足が痛くなるまで歩いても海は見えてこない。

森そのものは沈黙している。

けれどずっと注視されている気がした。

一際暗い木陰を潜ると、ひんやりと濡れた心地がする。

灰色の木々は黒や緑の苔に覆われて、樹皮はぬめった魚の鱗のようだ。

時々、ここで溺れているように錯覚した。

立ち止まると、森の沈黙が陰険な言葉で一斉に囁いているような気がして、追いたてられるように森をさ迷う。



夢の中を歩いていたはずなのに。



時間の感覚は夢のままだが、夢は一向に終わる気配を見せない。

奇妙だ、ともう長らく思っている。

違和感を覚えるまで夢に長居したことはない。

夢の中で蝶を追っていたはずなのだが、見失ってしまった。

何度も何度も繰り返し、蝶を追いかけていた。そのことだけは、疲労で朦朧もうろうとする頭の中で鮮明だった。

あの蝶がいなければ、わたしはうつろなままなのだ。



唐突に森を抜けた。

草原をなびかせる風が頬に触れる。


振り返ると森は糊付のりづけされたかのように不動だった。梢も葉も時が止まったかのように動かない。

この森には風が吹かないのだ、と思った。あの重苦しさは拒絶だったのだろう、虫も鳥も森の中で一切姿を見なかった。


シンとした暗がりで止まった時に留まり、変化をもたらす訪問者をいとう森。

それは自分のようで、やはりここは自分の夢の続きなのだろうかと首を傾げる。

自分の夢から逸れてしまったような気がしてならないというのに。


黒のお婆は口酸っぱく言っていた、道を逸れるな、蝶を見失うな、と。

困ってしまった。

蝶はいない、道はわからない。

お婆はわたしを探しにここまで来られるだろうか。



「こんにちは、柱姫」

綺麗な黒髪の少女が立っていた。



ヨナ、と彼女は名乗った。

わたしよりいくつか年上に見える。

落ち着き払った水のような雰囲気をしている。

森の陰りを映し込んだせいか、微笑んでいるが瞳は悲しんでいるようにも見えた。

「わたしは占いもするのでもしかしたらと思っていましたが、こんな幸運なことはありません。

どうぞ、我が家へいらっしゃって下さい、夜が来る前に食事を用意いたしましょう」



草原を少し横切った童話に出てきそうなこじんまりした家が彼女の家だった。

足を休めた途端に空腹を意識する。

ガラスのテーブルにパンと果実を並べられ、ためらいなく口にした。

夢のお婆の警鐘が頭を掠めたが、構っていられなかった。本当にくたびれて空っぽだったのだ。

食事が終わるとお茶を入れてくれて、足の痛みが静まる薬を塗ってくれる。



「あなたは一人暮らしなの?」

「はい。わたしは薬女くすりめで、森の近くにいることが必要ですから。ほとんどの人は森も薬女も敬遠します。彼らは夜に馴染まないので。

森の暗がりも、夜の病を治す薬を処方する薬女も、夜を連想させて彼らをとても不安にさせてしまうんです」

彼女は穏やかに言った。

「不便はありません、わたしのことは彼が気遣ってくれますから」


「なぜわたしを柱姫と呼ぶの?」

「敬称です。こちらへお渡りになる柱姫は名前をお持ちでないそうです。呼び名がないとなにかと不便ですし」

「そういう、もの?」

確かに自分の名前を全く思い出せなかった。

記憶もほぼない。

思い出せるのは、黒のお婆の叱咤ばかりだ。


道を逸れるな。

川を越えるな。

橋を渡るな。

境界石を動かすな。

蝶を見失うな。

蝶を怖がらせるな。


わたしはさ迷いすぎるのだと、お婆は呆れ果てていた。


「ここはどこなのかしら」

不安げに呟くとヨナが慰めるように肩を撫でた。

「大丈夫です。心配しないで。彼ならわたしより詳しく話してくれるでしょう」

「彼?」


ギャア、と外で鳴く声がした。

彼女は慌ただしくテーブルを片付け、水差しを置く。

窓に夕暮れのオレンジ色の光が飛び散ったと思うと、夜の暗闇が降りた。

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