第一章「飼い狗」

第1話 企み

 流れる人波に従い、ビニール袋を用意しながらごった返す空気へと入り込む。いかにも祭りに来た一般客ですよってなツラを装って。

 スリ自体は経験があってある程度慣れているが、この能力はその可能性をさらに広げてくれるはずだ。

 まず、言うまでもないが窃盗で慎重さを欠いてはならない。うっかりバレて、そいつが正義感の強いタイプだったら一巻の終わりだ。いつものように、焦らずいこう。

 狙うのはズボンのポケットに突っ込まれた財布だ。これまでは素早く引き抜いて立ち去るだけだったが、そこには怪しさが残る。

 そして、早速見つけた。尻のポケットに財布を差したまま悠々と歩く若い男。なんとも不用心なことで。


「.....開錠。」


 背後にぴったりとつき、ポケットに指を向けて「鍵」を捻る。すると財布を挟んでいた布地が緩み、俺へ差し出すように重力に従い地面へと落下した。

 それをキャッチするが早いか、手に持っているビニール袋へ投げ込む。あまりにもスマートすぎて笑いが出そうになるが必死に堪える。

 これは最高だ。呑気にまだ出店の物色なんてしてやがる。腹ペコのまんま家に帰るこったな、不運な奴め。


 そこからはまさにお祭り状態。たかが布のホールド力を過信し金を持ち歩くカモを次々と狩っていく。チョロいにも程がある。未だに誰一人気づく素振りすらない。

 間隔を空けて随分盗った。日が暮れてきているし、ビニール袋も半分くらいが満たされた、数万にはなったか。隙間から誰かに見られるとまずい。そろそろお暇するとしよう。

 最後のターゲットに選んだのは若い女。見たところツレはいないらしい。両腕を脇に垂らしたまま、ジーンズのポケットに入れたままの財布を警戒もせずに歩いている。

 もうお手の物だ。掴むための手を添えながら、挟み込む布に向けて「開錠」。


 御愁傷様。内心でそうほくそ笑みながら落下する財布を掴んだ瞬間、感触として伝わってきた謎の手応えに背筋が凍った。

 ぎょっとして財布を見ると、チャックの金具部分から細いチェーンが伸びている。

 それはズボン前部のベルトを通すリングにしっかりと引っかけてあった。

 しまった。隠れて見えないところに繋げてやがった。慌てて財布から手を離そうとしたその瞬間、女は直ぐ様振り返り俺の手に爪を食い込ませ力強く掴む。

 盗もうと前屈みになっていた俺に、女の冷ややかな視線が降り注ぐ。時が止まったような、まるで生きた心地のしない感覚。


「なにしてんの?キミ。」


「おッ、落としたから拾って...ッ。」


「あっそう~。でもチェーンつけてるから。」

「それにしてもスッゴい反射神経なんだねぇ、最初から落とすのわかってたみたいだねぇ。」


「ンなの知るか!財布落っことす方が悪いんだろ!?離せよッ!」


 苦しい言い訳を吐き捨てながら掴まれる手を強引に振り払い、踵を返し視線を落としたまま反対方向へ突き進む。

 ヤバイ。ヤバイヤバイ。アイツはヤバイ。俺の反射神経がスゲェとしたら、落ちたのに即気づいてるお前も大概だろうが。

 完全にバレていた。ターゲット選びのミス。人は見かけによらないとは言うが、限度ってもんがあるだろ。

 大丈夫だ。アイツのを奪い取ったわけじゃない。振り切っちまえば問題はない。第一見ず知らずの未遂スリ犯を必死こいて追っかける方が馬鹿だっつうんだよ。


 気づけば俺は、息を切らして人気のない道、自販機のそばに座り込んでいた。潮時だ。もう家に帰ろう。

 ビニール袋の口をぎゅっと縛り、足早に帰路を急ぐ。念のために道を複雑に迂回した上で。

 たどり着いた、住宅と住宅の隙間に挟まれたボロ家に転がり込む。ここが俺の手に入れたセーフハウス。

 おそらく元の住民にも後ろ暗い事情があったのだろう、俺がここを見つけた時には既に、生活感を残したまま靴と金目の物だけが消えていた様子だった。

 きっと夜逃げかなにかだ。必要ないのならもらっておけばいい。


「はぁー、クソ...ッ、ンだよあの女...!」


 財布入りのビニール袋を床に適当に放り投げ、カーテンを全て閉め切ってカビ臭い敷き布団の上に胡座をかく。

 袋を引き裂いて中身を確認する。こんな時は戦果を眺めて心を落ち着けよう。

 金だけを抜き出し、並べていく。札が増えるごとに口角が上がっていくのがわかった。

 集まった額は、合計にして4万1083円。上々だ。一つ二つ盗って終わりのところが今日は八つ。このくらいなくては困る。

 そして、必要ない免許証なんかを取り出したハサミで格子状に切り刻み空の財布ごとゴミ箱に突っ込む。

 さっきはかなりヒヤヒヤさせられたが一安心だ。とりあえず今日のところは外出せず大人しくしておくことにしよう。

 明日は奮発してなにか美味いものでも食おうか。回転寿司か、ファミレスで豪遊か。ステーキ屋なんてのも悪くない。


 想像が広がる。ひょんなことから身につけた力でボロ儲けだ。俺はなんて幸運なんだ。

 胸の高鳴りを押さえつけて、毛布を頭から被り押し殺した高笑いで満たす。惰眠を貪る時間は腐るほどあるんだ、早起きしてこの金の使い道を考えよう。

 歩き回った疲れも相まってか、俺は早々に眠りに落ちる。こんなに気持ちのいい睡眠はいつ以来だろうか。

 しかしその一時も束の間、身をこわばらせて布団から跳ね起きる。


「......あ...?」


 ノックの音だ。時計を見てみると、針は夜中の1時を指している。こんな時間に、こんなところに訪ねてくる人間がいる。

 総毛立つ警戒心、ペン立てからハサミをゆっくりと引き抜いて物音を立てないように慎重に立ち上がる。

 元の家主か。違う。自分の家なら入る前にノックなんかしない。それとも警察か。聞き込みだったら適当にあしらうか。

 先刻とは違う早鐘を打つ心臓。玄関の前まで来ても、ノックはまだ続いている。俺は意を決して扉越しに声をかけた。


「....どちらさん?」


 返答は帰ってこない。この時点で向こう側にいる人物が警察の類でないことが確定する。

 逆手に握ったハサミを振り上げる姿勢のまま、深く息を吸い込みドアノブに手を掛け。身体ごと押し退けるように開く。

 しかし、そこには誰もいなかった。立ち込める静閑さを裂く蝉の騒ぐ声だけが響いている。

 たちの悪いイタズラだったか。それにしてもこんな誰が住んでるかわからないボロ屋をわざわざ狙うなんて、暇なやつもいたもんだ。

 胸を撫で下ろし、ドアを閉めようとした。


「なッ、なんだよおい!?誰だテメエ!!」


 その時。ドアの裏から滑るように、目の前に飛び出してきた影。伸ばした腕が俺の首に、そして手は片腕に。

 そのまま背中が壁にギリギリと押し付けられる。わずかな合間に関節をねじられハサミまで落とさせられてしまった。

 闇夜に慣れてきた目で俺を拘束する人間の顔を見る。それは、鮮烈に記憶に焼きついていた覚えのある面だった。

 昼間にスリを失敗しくじった、あの女だ。その細い腕のどこからそんな力が出ているのか、押さえつけたまま鋭い眼でこちらを凝視する。


「お前ッ、昼ン時の女....!?」


「こんばんは。いい夜だねぇ。」


「なんだよッ、クソが...!!離しやがれ...!」


「情けないなぁ。ほいよ。」


 案外あっさりと耳を貸した。ハサミを拾い刺してやろうと思ったが、殺すのは避けないと。スリなんかよりよっぽどバレやすいし、重罪。

 膝をつき、塞がれた気道が開いて咳き込む。女はそんな俺を見下ろしながら、懐から出したタバコを咥え火をつけた。

 差し込む月明かりの陰になった顔、紫煙越しの視線は自分以下の人間に向けるそれだ。


「なん、なんだよ...お前、ゲホッ、ゴホッ...!」

「なんでここがわかって...!」


「そりゃ尾けてたからねぇ。素人臭かったよ?逃げ方簡単にパターン化できた。」


 そして、溜め息交じりに低い声で低血圧な話し方をする女は、一枚の名刺を指で挟んで目の前に落とした。

 そこには女の名前と、確かに「探偵」と書かれていた。


「探偵の、烏丸カラスマ 香那絵カナエでぇーす。」

「チンケなスリ犯さん。あたしはキミにひとつ用事があってお邪魔したのさ。」


「探偵が...俺に、何の用だってンだ....!?」


「交渉だよ交渉ー。まあいいから聞けって。」

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