第8話 ウォルトの一日

 ウォルトは極めて合理的な人間だ。夜10時きっかりにねて、朝5時に目覚める。一杯の水を飲み、身なりを整え、いつも同じ服を着る。そして、コーヒーを片手にこの研究所すべての研究に目を通す。

 生物学、量子物理学、脳科学、電子工学、数学、ありとあらゆる理系の最新学がここには集まっている。彼は朝の1時間でその膨大な学部の昨日の研究成果をすべて確認する。


 彼はそのすべてをすでに解いている。目新しいものはなかった。つまらないと言いたげに彼は資料を放りだす。


 そして朝はまず自分の研究にとりかかる。彼が今取り組んでいるのは瞬間移動だ。人を分子レベルで分解し、再構築する。彼は既に分子を任意の場所まで運ぶ研究にはすでに成功している。問題は、分子の分解と再構築であった。


 4時間その研究にとりかかると、彼は決まった昼食をとり、仮眠し、研究所をランニングする。時には施設に入っているジムで鍛えることもある。


 そして、午後になると今朝資料を見た中で一番正解にたどり着けそうな分野の研究室に顔をだす。


「皆さん、どうですか。研究の成果は。」


 ウォルトが声をかけると研究員はすべて頭を下げて、「お疲れ様です。」という。眼鏡ををかけた所長らしき研究員は明らかに睡眠不足な顔をしたままウォルトの近くへやってきた。研究者が睡眠不足とは愚かだとウォルトは思っている。


「報告通りです。一度は成功したものの、どうしても再現性が取れなくて・・・。」


「一度成功したのなら再現性を取ることは可能ですよ。」


「もちろんわかっております。」


「僕にはわからないのですが、なぜ100%の再現を求めているんでしょう?」


「どういうことです?」


「ちょっとした、僕のたわごとなんですけれどね。毎回100回に1回成功する。それもまた再現性とはいわないのかな。なんて、ね。」


 所長は、ハッとしたように研究員に声をかけた。


「おい、環境を一回全部元に戻すぞ!」


 研究員はバタバタと動き出した。ウォルトは二手、三手先まで読めているがそれには口を出さない。彼は学んでいるのだ。あまりにも先んじると面倒なことになることを。彼らが環境を戻したことを確認してから彼は言う。


「皆さん。最近ちゃんと寝てますか?」


 彼らは一様にあいまいな笑顔を浮かべた。


「もう。だめですよ。研究員だろうと何だろうと、体が資本です。今日は絶対5時には終了すること。これ、僕からの命令ですからね。」


「はい!」


 そう言って、研究員が笑顔で答えたのを見て、彼は「お疲れ様です。」の声を閉めるように研究所から出ていく。


 彼がこの研究所を作った理由。それは自分の本当の研究を知られないようにするためだ。ウォルトが本当はなんの研究をしているかここの研究員はほとんど知らない。どの国にも属さず、均等に成果を発揮していくために。ウォルトの頭の中のことはウォルトにしかわからない。それは非常に孤独で美しい静寂であった。


 一通り研究所を回り、最後は必ずタオのところへ赴いた。彼女に任せた綾羅木春人のウィルス研究は、唯一ウォルトが匙を投げた研究であった。彼女が解けるなら面白い。そう思っている。


「やあ、タオさん。今日も美しいですね。」


「…そういうのもセクハラに抵触するらしいですよ。ウォルトさん。」


 彼女は唯一ウォルトに頭を下げない。タオはウォルト側の人間だった。


「美しいものに美しいというのがセクハラになるなら、世の中の芸術品はすべて辱められていることになりますよ?」


 タオは答えない。


「どうですか、研究の成果は。昨日の日誌も白紙だったようだけれど。」


「発症していないウィルスをどう研究しろと。発症させたら、大変なことになるのに。」


「それでも君ならできると僕は信じているんです。被検体も2体もいるじゃないですか。」


「ウォルトさんが解けないウィルスを、私が解けると本当に思っていらっしゃいますか?」


「僕は、興味がない、と言っただけですが?」


「どんなに難しくても、解けそうな問題なら貴方は解く。解けないと判断されているでしょう。最悪、発症前に綾羅木春人さえ殺してしまえば済む話ですから。」


 殺す、と言うワードを表情を一切変えることなく言ってのけるタオに、ウォルトは身震いした。


「貴方は本当に合理的な人間だ。そういうところが実に素晴らしい。」


「…医学研究者をメンバーに入れてください。」


「そうしたら、解ける可能性があるのかな。確かに君のメインは量子物理学だけれど、ここにいる医学研究者の誰よりも君の方が数段階頭がいいと僕は知っているよ。」


 そうなのだ。ウォルトが神のような天才であるならば、タオもまた、それに近い天才なのだ。彼女もまたここにいる研究の内容をほぼ解いているのだ。ほぼ、と言うのは今のこのウィルスの研究とウォルトが行っている研究以外という意味である。


「僕はね、研究者が自分の脳を最大化させるために、適度な食事や、運動、睡眠をとらないのはとても愚かだと思っているよ。君はどうかな。」


「…本日は必ず7時間睡眠をとります。」


「どうですか、一緒に夕食でも。」


「食事は一人で取る人間です。貴方も、そうでしょう。」


「これは参りました。」


 ウォルトはタオの研究所を後にした。


 彼は早めに夕食をとる。そして、最新の脳にいいとされる音楽を聴き、1杯のワインをたしなむ。シャワーを浴び、着替えて、最新の本を読み就寝する。


 そのすべての工程において、彼は天使のような笑顔を浮かべていた。

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