笠松瑠璃診療所

篠塚麒麟

笠松瑠璃診療所

「こんにちは、高畑さんちのおじいちゃん。今日はどうされたのかな?」

 ここは小さな診療所。白いシャツに黒いパンツスタイルというシンプルな服装の笠松瑠璃は、医師であるが白衣を嫌った。白衣はなんだか患者との間に境界を作る気がしていたから。

 瑠璃は診察室に入ってきてゆっくりと丸椅子に座ったおじいちゃんに笑顔を向ける。

「どうにもこうにも腰が痛くてダメなんだよ」

 そう言うおじいちゃんを、

「じゃあそこ、横になって」

 とベッドへ促す。

 瑠璃はうつ伏せになったおじいちゃんの腰に左手をあてる。打撲や骨折の気配は無い。丁寧に患部を触診し、最後に左手の薬指で腰を撫でると、ポゥと淡く光る。

 瑠璃はおじいちゃんと再び向き合った。

「最近娘さんとはどう?」

「どうにもじゃな。忙しいとばかりでうちには寄り付かんよ」

「そっかぁ、それはちょっと寂しいわね」

 そう言いながら瑠璃は薬の準備をする。

 彼女は診察も薬の調合も一人でやっていた。

「はい、これお薬ね。なくなる前にまたお薬取りに来てちょうだい。ついでに今度はお茶でも飲みましょ」

 そう言って笑顔で送り出す。


 次に診察室へ入ってきたのは母親に連れられた小学生の女の子。

「かなえちゃんっていうのね。今日はどうしたのかしら?」

 少女は黙ったまま。となりにいた母親はわざとらしいくらいの大きな溜息を吐くと、

「ずっとこの調子で困ってるんです。何も話さないし、学校にも行きたがらなくて。話すことといえば頭が痛いと言うばかりなんです」

 瑠璃は俯く少女を見つめると、

「じゃあお母さんは少し待合室で待っててくださいね」

 と言って、少女と目線の高さを合わせる。

「ちょっと頭さわるわよ」

 そう一声かけて左手で頭に触れる。

 片頭痛はありそうだが大きな病気の気配はない。だが……

「手、かしてくれる?」

 そう言うと瑠璃は少女の手に触れる。

 少女の手からも大きな病気の気配はしなかった。しかし、それ以上に『母親の気配』もしなかったのだ。

「お母さんってどんな人?」

 手を握ったまま問いかける。少女は俯いたまま。

「この場所こわい?」

 はっとしたように少女は顔を上げる。その目は恐怖に満ちていた。

「ちょっとごめんね」

 そう言って瑠璃は少女の目と頭を順に左手の薬指で軽く撫でた。ポゥと淡く光る。

 少女はきょとんとして瑠璃を見つめた。

「かなえちゃん、色んなものや人がものすごく大きくなって襲ってきてたんじゃない?」

 少女の目に涙が浮かんできた。

 少女はいわゆる『不思議の国のアリス症候群』だった。不思議の国のアリス症候群は様々なものが大きく見えたり、自分自身が小さくなったり手足が遠くなって見えたりする。子供にとってそれがどれほどの恐怖か。

 さらに母親に相手にされないことで誰にも言うことが出来ず、恐怖心が頭痛となってあらわれ症状を悪化させたのだろう。

「またおいで。今度は私とゆっくりおしゃべりしましょ」


 瑠璃は医師であり薬剤師でありカウンセラーであり、そして能力者だ。

 彼女は医療機器を使わずに病気を見つけ治療することができる。彼女は左手の薬指で患部を撫でることで患者の『病み』そして『闇』を見つけ取り除くことができた。そして患者にとって今何が必要なのかを見極めることでアフターケアも欠かさない。

 高畑のおじいちゃんにとっては腰痛を治すことも重要だが、治すだけじゃ意味がなかった。おじいちゃんにとっての一番の治療は話相手になること。渡した薬は痛みをとるためではなく、また次も診療所へ来れるようにするためのもの。

 そしてかなえちゃんは母親の存在によって本当の苦しみが隠れてしまっていた。寂しさによって恐怖心は増し、恐怖によって寂しさが増してしまっていた。

 まずは恐怖心を取り除いたことで、次回からは寂しさの治療をすることができる。瑠璃はいずれ母親の治療も必要になるかもしれないな、なんてことを考えていた。


 そんなある日、診療所の扉を開けたのは二十代の女性。名前は沙織。

「こんにちは、沙織さん。どうされましたか?」

 物静かな雰囲気の彼女は、言葉を選ぶように口を開いた。

「右目が見えにくくなってしまって」

「そう、じゃあちょっとさわるわよ?」

 そう言っていつものように瑠璃は左手で沙織の右目に触れた。

 飛蚊症に光視症、それに炎症もおこしている。でもこれなら。

 瑠璃は左手の薬指でスッと撫でる。ポゥと淡い光。

「終わったわよ。気分はどう?」

「……大丈夫です。ありがとうございました」

 沙織は表情を変えることなく診療所を出ていった。

 それから一週間後、沙織は再び診療所にやってきた。そして今度は、

「両目が見えにくいんです」

 と言う。

 瑠璃は左手で目に触れる。両目とも網膜剥離をおこしていた。このままではいずれ完全に失明してしまう。

 瑠璃は左手の薬指でスッと撫でる。ポゥと淡い光が……灯るはずだった。だが何の反応も無い。瑠璃は再び撫でる。しかし、何も起こらない。

 もしかして……

「ちょっと手に触れるわね」

 瑠璃はそっと沙織の手に左手をのせた。

 そこから感じたのは自らの手で目を殴りつける気配。

 この網膜剥離は事故でも目の病気でもなく、いわゆる自傷だった。

 それでも普通なら治せるはず。元気な体や心にすること、それが私の力なのだから。

「私の目どうですか?」

 沙織が静かに聞いてきた。そして続ける。

「先生にお願いがあります。治さないでほしいんです」

「え? でもこのままじゃ近いうちに失明してしまうわ」

「はい、わかっています。それでも治したくないんです」

 治したくない? どういうこと? 瑠璃には理解できなかった。

 呟くように沙織は続けた。

「認めてほしい……ただ、それだけなんです」

 その目には強い意思が宿っていた。

「とりあえず一日時間をちょうだい。明日また来てくれるかしら」

 沙織は約束をして診療所を出た。

 それから瑠璃はあらゆる文献を読みあさった。沙織の『闇』は? 助けるにはどうすれば? そしてやがてひとつの可能性にたどり着いた。


「目の様子はどうかしら?」

「はい、さらに見えにくくなっています」

 沙織の声は冷静だ。

「今日はちょっと頭に触れさせてね」

 そう言って瑠璃は沙織の頭にそっと左手をのせた。

 そして感じ取ったのは、今までの瑠璃の常識を覆す世界。それは『身体完全違和』と言われるもの。

 身体完全違和とはいわゆる五体満足な一般的に言うところの健康体でいることに違和感や不安を感じるというもの。

 沙織にとっての『正常』は身体の一部が欠けていることなのだ。それが沙織にとっては視力であった。

 瑠璃は納得した。だからあの時何も起きなかったのだ。瑠璃の力はその人にとっての『病み』そして『闇』を取り除くこと。沙織にとってのそれは健康な身体であるから、視力を失おうとしているその身体にとって取り除くべきものはなかったのだ。

 瑠璃のできること、やるべきことは決まっていた。

「沙織さん、あなたの目はもうすぐ光を失うわ。でもそれはあなたにとって不幸じゃないことを私は知った。だからこれからもたまにはおしゃべりしに来てちょうだいね」

 瑠璃は左手の薬指でゆっくりと沙織の目を撫でた。

 ポゥと淡い光。

「ありがとう、先生」

 涙が頬を伝った。

 沙織の目は永遠に光を失った。視力を失うことで苦労することもあるだろう。困難な生活が待っているかもしれない。だが、彼女にとってこれは人生の第二ステージの始まりなのだ。

 人によって感じ方は様々だ。何が『幸せ』なのか。それによって『闇』も違う。自分にとっての『普通』と相手にとっての『普通』が同じとは限らないのだから。だから瑠璃は知ろうとすることをやめない。理解しようとする手を止めない。これからも、ずっと。

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笠松瑠璃診療所 篠塚麒麟 @No_24

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