第十三話 狂人
「言葉の通りだよ。私は他者への暴行が見過ごされてしまう環境や、尊厳を踏みにじることで他者を支配するという発想を生んでしまった、まるで理性を失った獣のような文明の在り方を憂慮したんだ。他にも私に対する暴行の中には子供が知っているには過激すぎるものもあったから、子供がそのような知恵を身につけることが出来る社会であることも深く嘆いた。自身に直接危害を加える存在のことは哀れむばかりで、私はより根源的なものへの不安を次第に募らせていった。事実、私が理不尽な目にあったことは間接的には社会のせいでもあっただろうから、私の抱いた感情は強ち間違ったものではないのかもしれない。しかし私の在り方は、明らかに人として異常なことではないかなと思う」
「そうでしょうか。幼い時から人を徒に憎まず社会を憂慮した貴方に、俺は敬服こそしますが、異常だと見下げることなど少しもあり得ません」
詳しく説明されれば成程、確かに大袈裟で異様に規模の大きい話だとは思ったが、彼のように人を慈しむ心を持つ者というのは幼少の頃から己の中に正義を持っているのだと、俺は逆に感心した。故に、ホルスト卿がそれを異常と呼ぶ理由が理解出来ずに俺は首を捻るが、対照的に彼は機嫌が良さそうに微笑んでいる。
「ならば己の身に置き換えて考えてみるといい。どうせなら、うん。もっと極端な話にしようか。例えば資源が不足した我が国が隣国と戦争を始めたとしよう。その世界での君はそれなりの地位にいる兵隊だったが、今は悲惨なことに、敵軍に囚われてしまっている。そして情報を引き出すために、君は想像を絶するような拷問に掛けられるんだ。敵兵は嗜虐と血に酔い、絶叫する君を大笑いしながら嬉々として君を甚振っている。さて、この正気を失うような絶望の中で、君は果たして敵兵に憐憫を覚えるだろうか?」
「まさか、憐憫ですって?」
「そう、敵兵もまた戦争の被害者であるとね。さらに君は、国を戦争という愚かな行為に走らせてしまった原因の追究を始める。順当に考えれば、今回の例では資源不足だと言えるだろう。しかし限りある資源を大切に使わなかった過去こそを問題にすべきではないのだろうか。そもそも資源に依存するような高度技術社会そのものが間違っていたのかもしれない。発展こそを至上とし、道徳を疎かにした教育ばかりを国民に施してしまっていたことで、そのような社会へと変遷してしまったのだと君は考える。そう確信して、決心するんだ。敵軍から逃れ自国へ帰還したら真っ先に社会の在り方を見直し、国民の教育の幅を広げよう、と。君はそうして拷問の最中に現代の社会の在り方を憂い、より適切な世界への改革を決意する。さて、話を戻そうか。ここで君に尋ねるけれど、このような思考の変遷は果たして、道理に叶っているだろうか?」
その架空の話を己の身に起こったことだと考え、俺は瞬時にあり得ぬことだと結論を下した。まさに今、直接己を地獄に突き落としている者がすぐ目の前にいるというのに、その者を哀れむことなど出来る訳もなく、激痛と屈辱の中で社会の在り方を悠長に憂うことなど、まるで信じられない話だ。仮にそのような思考に至る人間が誠に居たとすれば、その者こそまさに……。俺は卿の言わんとしていることをついに理解した。
あぁ、なんということだ。この話の根本は、ホルスト卿の幼少の頃の話と本質を同じくしているではないか。俺はそれに気がついてしまった。敵兵と己を虐める子供。拷問と心身への暴行。その対応を考えれば、一見異なる二つの話は同一のものとなる。その事実に思い至り顔色を変えた俺に、ホルスト卿は肩を竦めた。
「もしもそのような思考に至った人間がいたならば、私は彼を迷わずこう呼ぶね。——まさに、その者こそ狂人だと」
それは俺がたった今しがた思い浮かべた言葉そのものであった。絶句する俺に、彼は満足そうに続ける。
「思えばこれが、現在の私の起源であり、私を他とは決定的に異なる存在へと分類させたものだった。君には到底信じられない話だとは思うけれどね、まさに私はそういう子供だったんだよ。己を客観視すると、自身が正常とは程遠く、人間としての何かがずれてしまっていることが分かるんだ。なんだろうね、それが情緒か、はたまた人間性そのものなのかは知らないけれど。……だからこそ、私は君に惹きつけられた」
彼は俺のことをジッと見つめて意味深な微笑を浮かべた。何故かその笑みに俺の背筋が粟立つ。本能的に彼の言葉の続きを聞きたくないと訳も分からず思わされたのだが、無情にも彼の口はゆっくりと開かれた。
「生まれてこの方、何者も憎んだことがない。故に私はその感情を知らず、想像することしか出来なかった。さて、想像のために私は様々な文献を閲覧したが、そうすると必然的に考えつく憎悪というものは理路整然とし、如何なる理屈にも見合うものとなってしまうんだ。しかし、それを正しいものだと思い込んでいた私の考えを根本から覆したのが他でもない、君だった」
「……俺ですか?」
「君の憎悪の在り方はあまりに不条理で、理屈という観点から見た場合には、明らかな間違いを含んでいるじゃあないか」
「俺には意味が分かりません、ホルスト卿。貴方は一体何を言っているのですか」
確かに俺の中は増悪と嫌悪の念で埋め尽くされ、まるでそれ自身が俺の本質ではないのかと疑わせる程に己の内で存在感を放っている。しかし、幼少期より繰り返し考え抜かれたそれは、決して理屈に叶わぬものではないはずなのだ。そう己を説得しようとするも、何故かその行為自体が間違いを正しいと自身へ必死に言い聞かせているようなものに思えてしまい、俺は己の思考に混乱する。卿へ反論しようと口を開くも言葉を失ってしまった俺に、ホルスト卿はクスリと喉を鳴した。
「おや、自覚がないのかい? 君が怨嗟を向けるべき対象は、害もなく君の近くにただ存在していただけの一般民衆じゃないはずだろうに。君の母を廃人にした麻薬を己の利のために流通させ、仕事の領分だというのに貧民窟を放置し、如何なる改善策をも取もろうとしなかったのは誰だ?」
その言葉に愕然とする俺を眺めながら、ホルスト卿は優雅にグラスを傾けた。
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