第十四話 憎悪
己の母が壊れる様を誰よりも近くで見ていた。聡明な瞳に常に優しさを湛えていた彼女は次第に狂気に取りつかれ、麻薬を求めて獣のように這いずり回る。禁断症状のため己を見失った彼女は俺を何度も殴りつけ、俺が激痛に蹲る間に新たな薬に手を伸ばす。そして恍惚とした表情でつかの間の快楽を享受するのだ。しかし麻薬を手に入れる金がない。彼女は同僚や店から手当たり次第に金を盗んだため、彼女が廃人となって呆気なく死んだ頃には、俺が犯罪者の息子として家から追い出されるのは当然のことであった。その先で見た麻薬の売人もまた誰かの被害者のように見えておかしかった。彼等も母と同様に金がなく、生活のために仕方なく違法な売人に成り下がっていたのだ。己の現状に嘆き、自らもまた薬に手を出して破滅した売人を見たことがある。その際の観察によって、彼等の背後には指示を出している存在がいると悟り、それが麻薬取引により多額の利益を得ているどこぞの権力者であることも時と共に知った。俺は母を殺し、己をこの過酷な環境に叩き落した者の正体を確信していたのだ。その環境とやらもそうだ。何故この貧民窟は放置されたままなのか。警官がここまで巡回にこない理由は一体何なのか。元より母の教育のために学のあった俺は、単にそれが政府の怠慢であると分かっていた。明らかに取り組むべき課題だというのに、今も大勢の人間が俺の近くで貧困により死んでゆく。時には寒さを乗り越えられずに凍死している。この格差社会は己に富を集中させたい独裁的な国の上層部による故意が大本にあり、また何も持たぬ浮浪者は救済したところで己に何の利も齎さぬと自己本位な都合を掲げて見捨てた結果なのだ。俺はそれを知っていた。知っていてなお——何故、俺はそんな彼等には憎悪しなかったのか。
その代わりに何故、俺は己に一切の危害を与えず、ただ人間の集団を構成して個を放棄した一般庶民のことを、まるで地に這いずる影のようだと唾棄したのか。
「君は己の感情が民衆にとっては理不尽なものであるといつか私に話してくれたね」
混乱し始めた俺にホルスト卿は悠然と告げた。
「故に君は自覚しているはずなんだよ。同世代の子供達と比べても君は突出して聡い子供だった。君は私と出会った頃には既に己を不条理な境遇へと貶めた者が誰なのかを理解していたね。その上で君の憎悪が向いている先は、不思議なことに一般民衆だった」
「違います、違います……。俺はただ単純に、楽な方へと進もうとする彼等の浅慮的な生き方が恨めしいと思っただけで」
「ならばどうして本当の原因のことは思考の外へと追いやったんだい? 政府や、金と権力に目が眩んで政府と癒着した警官を、君はどうして無視したんだい?」
「それは……それは……」
いつもと変わらぬ調子で次々と指摘をしていくホルスト卿の言葉に俺は蒼白となった。俺は彼の言葉を脳内で反芻する。それはむしろ強制的に鳴り響く不愉快な反響音のようであった。彼の言う通り、俺は明らかに怨嗟を向ける対象を間違えているのだ。特に俺がただ明日の食料のことのみを考えているような楽観的な人間であればいざ知らず、既に事の真相に行き着いていたというのに、俺の中の憤りは一体どのように処理されてしまったのか。——そして、今こうして指摘されてもなお、どうして民衆への怨嗟は俺の中で暴れまわることを止めないのか。どうして俺は言葉の続きをスラリと紡げないのか。
そんな俺の様子を見たホルスト卿は「これは想像だけれどね」と俺の代わりに口を開く。
「色々とその理由を考えてみたところで、憎む心を知らぬ私には到底思いつけないだろう。ただ、自分では納得がいっていないけれど、一つだけそれらしいものが思い浮かんだよ」
「……正直、あまり聞きたくありませんが、それはどのようなものなのでしょうか」
「姿形や居場所すら知らぬ雲の上の存在を心の底から憎悪するのは難しく、数歩先の身近にいた民衆を恨むのは容易だった——私には理解不能な考え方だけれど、どうだろう」
戦々恐々としながら待った言葉は、予想外にも俺の心にストンと落ちた。俺は両手で顔を覆って俯く。あぁ、聞きたくなかった。俺は彼の指摘を酷く嫌悪した。耳に指を入れ、脳に入り込んだ彼の言葉を引きずり出したいと、俺はそれだけを望んだ。
——結局、そういうことなのだ。
母を指差し笑い者にしたのは誰か。空腹と渇きに惨めに蹲った俺の目と鼻の先にいたのは誰か。それが間違いなのだと理性では分かっていても、絶望に俯いた先にあったのは揺らめく一般民衆の影であったのだ。俺の感情はあまりにも理不尽で、そしてそれ以上に、我が身を焼き切らんと激情が轟々と燃え盛っていた。
俺はそれをようやく自覚し、深々とため息をつく。
「……どうやら、そのようですね」
「ならばその憎しみは不条理だ」
「貴方はそう言いますがね、それでも俺は、彼等を憎むのをやめられないんです」
怒鳴り散らかしたい所を理性で必死に抑えながら、俺はきつく拳を握り締めた。
「理由なんて知りませんよ。とにかく、俺は彼等が恨めしい。数日前のあの日、俺は民衆を愚弄することを心の底から楽しみました。こちらの狂言に踊らされる彼等を蔑み侮り、罵倒の言葉を吐き散らしながら、本心では歓喜喝采していたのです。ただ感情のまま、己の中で腐り落ちそうな程に長らく居座っていたこの憎悪をぶつけることが、何よりも私を興奮させ、楽しませた。そして足りないとも思いました」
その時の悦楽を思い出し手が震えた。力が入りすぎた拳がグラスの細く括れたステムを折り、ボウルが上等な絨毯の上に転がる。撒き散らされたブランデーが俺の感情を代弁するかの如く濃厚な芳香でその存在を訴え、ジワリと広がるアルコールがジリジリと俺の脳を狂わせてゆく。
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