第十二話 ホルスト卿という人間

 五


 義憤に燃え、不正や非道な振る舞いばかりしていた政府要人を粛正しようと試みたが失敗し、敵の手に落ちる前に自殺を果たしたという筋書きで表舞台から退場したホルスト卿は、読んでいた新聞紙をパサリと机の上に置き、代わりに上質なブランデーが注がれたグラスを手に取った。


「それにしても」


 彼はさもおかしいと目を三日月の如く細める。


「まさか政界どころか世界から姿を消してもなお、私にあれこれと手を焼こうとするとはね。その内容も死人を貶めるという、あまりに馬鹿げたものだ。これはさすがの私でも想定外だったよ。別に悠々自適な隠居生活を送ろうと思っていた訳ではないけれど、あいつらも面倒なことをしてくれたものだ。政府からの依頼を聞きつけた君が手を回してこの件の担当になってくれて本当に助かったよ。また上等な酒を用意しなければならないね。今度はウイスキーなんてどうだい」


 すっかり酒を嗜むようになった卿の言葉には答えず、俺は机の上に視線を落とす。そこには新聞が無造作に置かれ、その表紙には大々的にある記事が掲載されていた。


 ——『慈善家と呼ばれたホルスト卿の明らかとなった本性』


 その記事には俺と警官が繰り広げた茶番劇の内容が事細かに記されている。俺はグラスを傾けて、鬱憤に満ちた脳をブランデーの濃厚な香りで浸し、憎悪の感情を沈めながら口を開いた。


「俺としては、貴方の評判が地に落ちたことに強く遺憾の念を覚えます。今や、貴方は狂人扱いだ。俺達が調整して決めたことではありますが、貴方の名誉が貶められてしまった」

「あぁ、そいつは麻薬を流通させた男で、婦女を強姦する嗜好の持ち主で、加えて子供の虐待を楽しむ嗜虐嗜好者らしいね。さらに数え切れない程の不正を行ったんだって? 全く、とんでもない男だな、そのホルスト卿とやらも」


 彼は自分のことだというのに新聞記事に書かれていた悪事を何とも楽しそうにつらつらと読み上げた。俺が「実際の貴方とはかすりもしませんね」と呟くと、ホルスト卿は肩を竦めた。


「うん、確かにこんな悪逆にはちっとも覚えがないけれど、案外、狂人という称号は言い得て妙かもしれないよ?」


 面白がるような表情を浮かべた彼に俺は眉を顰める。


「まさか、弱き者に手を差し伸べ腐った政界を正そうとした貴方が狂人ですって?」

「逆に何でも思い通りに出来る程の権力を持ち、購入できぬ物は無いと言える程の財を手にしている者が、それを一切、己の私利私欲に使おうとしないことは、果たして正常と言えるのかな。権力と富は人を狂わす魔力を持っているが、それに魅了されなかった私はそもそも狂気に近い場所にいるのかもしれない」

「それは気狂いではなく、単純に貴方の持つ優れた人間性のためでしょう」

「それはどうだろうね。そういえば私は君に尋ねてばかりで、自身のことをあまり語っていなかったようだ。自分語りは苦手でね。だからこれも君に話したことがないと思うのだけれど。実はね、幼い頃の私は気が弱かったんだ。いや、どちらかというと感情表現を苦手にしていただけかな。とにかく同世代の子達と比べても私は少し異質だったらしい。そのせいで年相応に活発な子供達に、私は寄ってたかって虐められていたんだ。人格否定に暴力も当たり前。まぁ、他にも口に出すのを憚られるような類の暴行だって受けたよ。子供といっても侮れない、むしろ彼等には彼等特有の残虐性がある。私も相当辛い日々を過ごした。そんな私が悲愴の次に覚えた感情は何だったと思うかい?」


 突然の問いかけに少し考え込んだ後、結局は「絶望の末の虚無感か、或いは己を悲惨な境遇に貶めた相手への激怒でしょうか」と返した。一癖も二癖もあるホルスト卿の問いかけの答えが、誰にでも思いつける様な安直なものであるはずがないだろうと捻くれたことを考えつつも、至極平凡な思考回路を持つ俺では、ごく単純な内容しか思いつけなかったのである。それを残念に思いながらホルスト卿の表情を確認すると、思いがけないことに彼は俺の返答にも実に満足そうに頷いていた。


「まさにその通りだ。前半部分は兎も角、後半部分は実に好ましい回答だよ。君の言う通り、通常ならば絶望以外に抱く感情と言えば、己に無体を強いる相手への憎悪だろう。けれど私はそうではなかった。不思議なことに、自身を虐める相手に対しては達観したように冷静な感情しか抱けなかったんだよ。私は己の身体と尊厳を嬉々として踏みにじる彼等を哀れだと思った」


 俺が想像した通り、話は思いもよらぬ方向へと進んでゆく。口を噤んで次の言葉を待つ俺に、彼は勿体ぶることもなく平然と続けた。


「その代わりに私が覚えた感情とは、あろうことか社会に対する危惧だった」


 俺はその言葉の意味を瞬時には理解出来ず、一拍遅れて聞き返した。


「えぇと、何ですって? それはまた、どういったことを指しているのでしょうか」


 社会という言葉は漠然としすぎているように思えるし、危惧という感情が先程の話の一体どの部分から生じるのかすら、俺にはさっぱり分からない。あまりに突飛な内容に混乱し始めた俺に対し、彼は優雅に足を組んだまま、表情を一切変えなかった。

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