第3話

◇ ◇ ◇


 さっき、彼女に振られてしまった。

何がいけなかったのだろう。

いや、それは当然の結果だったのだと今、改めて思う。

僕みたいなだらしない男が嫌いな人だったから。

いつも責任感を持ちなさいと言ってきて、鬱陶しい人だなと思った。

だけど、しっかりと叱ってくれる人に会ったのは彼女が初めてだった。


 貧乏な家で生まれ、シングルマザーの母はいつも家を留守にし、毎晩夜遊びしにいくような人だった。

母みたいにはなりたくないと思い、十五歳の頃からは一人暮らしを始めると、高校に行かず、ずっとバイトを掛け持ちでやるような生活が二十歳まで続いた。

いつかはバイトで生活費を稼ぐんじゃなくて、俳優をして稼ぎたいと思った。


 僕は幼い頃から映画を見るのが好きだった。

母が時々家にいた時、母の高級財布に入っていた現金をバレないほどだけ取って、よくそのお金で映画館に行き、一人でハリウッド映画を観ていた。

映画の中の人は自分とは違い、最後にはハッピーエンドが訪れるような生活をいつも送っていた。

だから僕は俳優を目指した。


 同時期に母が亡くなったという連絡がきた。ちょうど若造が夢に向かって走り出そうとしていた時に……

僕は亡くなった母の生前していた借金四千万円を全て肩代わりさせられることになった。

ちょうど僕が俳優の仕事も始めた頃の事だったから、

やっていたバイトを全て辞め、昼は俳優として働き、

そして夜はホストとして繁華街で活動するようになった。


 嫌で嫌で堪らなかったホストとしての最初の客は、綺麗で自信に満ち溢れていそうなお姉さんだった。

だけど少しか細くも見えた。

今にも泣き出しそうな美しい瞳に、気づくと僕はずっと見惚れてしまっていた。

看護師のストレスになる業務、患者との面白い出来事を聞くのに夢中で、ホストとしては最初の仕事をうまく熟すことができなかった。


 このどうしようもなくしょうもない人生で、彼女は生きてもいいんだよと囁いてくれているような気がして、皮肉にもホストを通して、初めてもっとこの人のことを知りたいと思えてしまった。

彼女とはその後も会い、しょうもない話をして、頼りない僕のことを笑い、叱ってくれた。



 それはただのありふれた日曜日の夜10時。



 憂鬱な新しい週の始まりの夜明け前、

学校や、仕事に行きたくないと嘆く人たちの声が聞こえてくる日曜の夜、

特別でもないそんな時間を僕だけは、たまらなく愛おしく感じた。




◇ ◇ ◇


 僕はその後、彼女の来なくなったホストクラブを辞め、俳優事務所YEDに所属し、マネージャーに全てのスケジュール管理を行なってもらった。

彼女のスケジュール帳よりもきめ細かく、そしてびっしりと埋まっている予定表。


 その一年後には、また正式に芸能活動を再開した。

それからまた二年後には、月九の主演と大河ドラマのW主演。

次の年には日本アカデミー賞主演男優賞受賞、そして勢いのままに渡米。

彼女と別れたあの日から六年たった今、僕はアジア系史上初の米アカデミー賞主演男優賞を受賞した。


 日本のバラエティー番組出演のために一時帰国した僕は、徹底的なスケジュール管理のもとで、休憩する暇を探していた。


「次の収録が『しゃべって008』、連続で『タケシ西本のすべらない話』です。今日はその後、少し時間があるのでホテルで休憩してください」


 マネージャーが都内にある某テレビ局の楽屋でそう言った。

今日は珍しく午後五時にテレビ収録が終わると、すぐさま宿泊しているホテルで夕食を済ませ、疲れに疲れが溜まった身体を休ませた。


 それから起きたのは夜中の九時。

もっと寝たいと思っていたけれど、休みをもらえた日ほど、なかなか寝られないものだ。

久しぶりの日本を少し満喫しようと思い立ち、隣の部屋にいたマネージャーからもらったマスクとサングラスをして街中に出かけた。

ホテルから電車で二十七分ほど揺られたあと、時間は夜10時を回ろうとしていた。

辿り着いた駅は彼女をよく送っていったあの駅。

未だ、あの頃の出来事を鮮明に思い返せる。

だけれど、街を見返すと当時のあの頃とは違う様に見えた。


 思い出に浸りながら、改札を出てホストクラブの方に歩いていくが、直ぐに街の雰囲気がまるで違うことに気づく。

周りのホストクラブも一掃され、もう既にここは夜の繁華街ではなくなっていた。

よく彼女と会っていたホストクラブも、居酒屋になって、生まれ変わっていた。

営業中の居酒屋を覗くと、大学生のサークルらしき団体が飲み会をしている。

それを見ていると、少し寂しくなった。


◇ ◇ ◇


 彼と会わなくなってから、彼のことを思い出さないために、日曜日の夜はコンビニでハイボール缶を二本買って、家に帰りながら飲むことを新たな習慣にしていた。

別の習慣をつけないと、いつまでも彼のことを気に留めてしまうようで怖かったから。

だから日曜日の夜は、コンビニでお酒を買う日なのだと自分に無理矢理にでも錯覚させた。


 ある日曜日の夜、私はいつも通り百九十八円のハイボール缶を二本買うために五百円玉を片手に握りしめて、家を出た。

夜のコンビニまでの道のりは、街灯の光だけが私を照らし出し、まるでスポットライトに当てられているような気がして、不思議に魅力的だった。

些細な考え事をするのにはちょうどよかった。


 ニュースで彼のことを見るたびに、過去の思い出が嫌と言うほどに溢れ出してくる。

そういえば、彼と最初に出会ったあのホストクラブは一体どうなっているだろうか?

彼と一緒に歩いた、駅までのあの繁華街はどうなっているだろうか?


 私はそんなことを考えていると、コンビニではなく、家の最寄り駅の改札口の前に立っていた。

二百二十円の切符を買い、改札口を通って、たまにはいいかとどこか懐かしさを感じられた駅に向かった。

電車が来たのは九時二十八分、電車で二十三分間、無心に揺られていると、六年前と何も変わっていない姿の駅があった。

しかし、駅から出ると前に来た時の雰囲気ではないことに気づいた。

ホストクラブだったり、キャバクラがズラーっと並んでいた当時の繁華街とは似ても似つかない姿に変貌していた街並みを見て、当時の記憶が薄らと消えていく気がした。


 あのホストクラブも多分なくなっているんだろう。

ホストクラブの場所を思い出せないまま、駅の近くにあったコンビニで百九十八円のハイボール缶を一本だけ買った。

だけど、愚かなことに缶を買ったことで帰りの電車賃を払えなくなった。

コンビニの外でハイボール缶を飲みながら、自分の記憶と微妙に合わない街並みを見ながら、ちょっぴり寂しく感じた。


◇ ◇ ◇


「……え」

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