第2話

◇ ◇ ◇


——「おーい、おーい。」


 懐かしい頃の記憶が曖昧に、けれども手に届きそうなくらいの距離にある。

小さい頃におばあちゃんによく連れていってもらった駄菓子屋が微かに見えてくる。


——「おーい、美由紀さん」


 そこで、おばあちゃんは笑顔で言う。「みーちゃん、いつも二百円までだけど今日は三百円までいっぱい買っちゃおうか。贅沢しようか!」


——「美由紀さーん。」


 もう聞き飽きたほどに、「責任」や「大人になったら」と私に言い聞かせるおばあちゃん。

だけど、この日はなぜか贅沢してもいいよ、とそう言ってくれた。


——「起きてよ〜、お店閉まるって〜。」


「おばあちゃん、こんだけ買えちゃうよ!」

嬉しそうに、身長百センチにも満たない今にも消えていなくなりそうな私が言う。


 おばあちゃんの笑顔が少しずつ消え、しょんぼりした顔でこう私に言う。

「みーちゃん、いつも我慢とかさせてごめんね。責任とかって言って押し付けてごめんね。でもね、大人でもたまには楽して生きていいんだよ。」



——「美由紀さんッ!」



と肩を揺らして美由紀を起こす。

美由紀は葵の膝の上に頭を置き、熟睡していた。

ホストクラブのカウンターのバーテンダー頭上にある大きい時計を見ると、時刻は二十三時五十二分を回り、あと八分で閉店することに気づいた。


 隣にあった黒レザーのジャケットを羽織り、「そろそろ帰る」と言って席を立とうとする美由紀の手をぎゅっと掴み、葵は優しく声をかけた。


「美由紀さん、今週もお仕事お疲れ様。美由紀さんのおかげで仕事増えるようになったし、これからはちゃんとした事務所に入ることにします」


 ほんの一瞬だけ戸惑った表情を見せた美由紀。

少し経ってから、彼の手を振り解いて、「そう。その方がいいわね、色々と細かく管理してくれるみたいだし」と言って、店を出た。

外は小降りの雨が降っていた。

後からついてくる葵が傘を一本刺しながら、左手に持っていたもう一本を少し歩き出していた美由紀に渡した。


「駅まで送っていきます」


「いいわよ、ついてこなくて」


「僕がついていきたいんですってー!」


「そう、ならいいわ。好きにして」


「そういや最近、美由紀さんなんかそっけなくないっすか?もしかして僕のこと嫌いになったとか」


 笑いながら冗談っぽくそう言った彼に美由紀は強くこう返した。


「そうかもしれないわね」


「えーきついっすよー。でも僕は美由紀さんのこと結構好きっすよ」


「なにバカ言ってんのよ。私は三十二歳であんたはまだ二十一歳なのよ」


 今度は真剣な表情で葵は傘と傘が少し触れ合う位置まで、彼女に近づいた。


「ちょっと待ってくださいよ、美由紀さん。僕、結構本気です。年齢なんか関係ないと思いますよ。美由紀さんが僕のことをしっかり叱ってくれたことが嬉しかったです。騒動があってから、色々酷い事を言われて、正直傷つきました。美由紀さんの前では強がってましたけど、内心は誰かの支えがあって本当に良かったです。僕は美由紀さんが本当に好きだと思います……僕と——」


「ダメよ、あおいくん。私はあおいくんの初々しさに惚れたのよ。私を口説いてそれが一体何になるのよ。逆効果よ。そんな風に思っていたなら、もう来週からはホストクラブに行くのやめるわ。だからあおいくんもスケジュール帳の予定は消しな」


 雨は次第に葵の心を体現したかのように強くなる。

その中で葵は雨の音で消された自分の泣き声に気づかなかった。

反対に、表情を一つ変えずに美由紀は駅まで歩き続けた。

虚しい空気が残りながらも、葵は彼女に何も言えなかった。


 彼らの胸懐とは別に、強くなった雨は地面を叩き、水飛沫はまるで楽しく舞っているかのように物寂しいその場を見守っていた。

そして、駅の改札口でいつも通り手を振りながら、これで終わりなのかと後悔を残しながら、二人は別れた。


◇ ◇ ◇


 あなたはキラキラした目で私に手を差し伸べてくれた。

アドバイスや、言っていること自体は他愛もないようなことばかり。

けれども、あの時の私からすると十分すぎるほどの手。

 最近はインテリアになっていたテレビをつけ、ニュースを見始めた。


 ニュースの画面に映った君は、もう私の知らない君だった。

あなたの見た目は六年前よりあまり変わっていない。ただ少し大人びたくらい。

でもきっと心の中では大きな変化があったに違いない。

六年という時間の長さは大人にとっては短く感じてしまうかもしれない。

だけど、時間が経つにつれて、あの頃は長くて楽しい日々だったなと気づく。

昔の溢れ返りそうな思い出を振り返る時も、少しの後悔と共に、あの頃に戻りたいと長く灯しい余韻に浸ってしまう。


 君が活躍する姿を見て、素直に嬉しいと思いつつ、君との間に空いてしまった距離の大きさに孤独感も感じた。


「日本国宝とも称される超人気俳優、増田葵。レッドカーペットを歩きながら、今登場しました!」


 ニュース中継でアカデミー賞の授賞式がやっている。

増田葵主演のハリウッド映画「Edges of Earth」がアカデミー賞ノミネート作品として選出されていた。

それをテレビ中継で日本にいる私は観ていた。

興味もない授賞式の映像を長々と観ている。

時々カメラに抜かれる彼の姿を見て、少しビクッと反応してしまう身体、同時に笑顔が溢れてしまう。


……おめでとう。


 どんなに考えても、そんなありふれた言葉しか思いつかなかった。


「そして、アカデミー賞主演男優賞の受賞者は増田葵さんです!」

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