第54話 ショートの草薙香梨

 友樹は足を上げてリズムを取りながら打球をぎりぎりまで見る。


 ピッチャーとの力量の差を見てしまう。見なかったことにしようか。かろうじて当てたファールがぼてっと転がる。


 大きな空振りをしてしまい、このピッチャーには敵わないと、正直に思ってしまいそうだった。


 草薙が三盗している。


 いつの間に。二塁にいったことさえ気がつかなかった。


 自分たちより強い相手でも、草薙の挑む姿勢は変わらない。

 レベルが違ってもやることは同じ。いつかどこかで自分が言ったのだと友樹は思いだす。


 楽しいということを忘れていた。友樹はバットをうんと短く握った。ヒットになるかどうかを考えるよりも、まずは当てよう。


 思いきり振りぬいてバットがボールに当たれば楽しい。例えヒットにならなくても、これが今の自分だ。


 まぐれ当たりを目指して、全力でボールを当てることだけを考える。


 いつか必ず、新藤のようにチームのために打つ選手になる。

 でも今はただ、自分の全ての力を出すことしかできない。


 ファーストにファールフライを捕られてアウト。友樹は顎から落ちる汗をユニフォームで拭う。

 泣いても笑っても、これが今のすべてだ。


 四番桜井が惜しくもアウトになったが、「お前が打たなきゃ俺が打つ」と言った五番坂崎がヒット。


 草薙がホームに還ってきた。


「おかえりなさい!」


 まだ友樹の体に打席の感覚が残っていて、いつもより勢いよく草薙を迎えた。


「井原が粘ったから三盗できたよ」


 草薙は淡々と言ったが友樹は満面の笑みを浮かべた。


「よかったです!」


 草薙は少し疲れている様子だ。


「井原は楽しそうだ」


「楽しいです」


「ノートを書いているのも楽しかったの?」


「はい!」


 大きく頷いた友樹に、草薙は少しぼんやりした様子を見せた。

 一体なんだろうと友樹は首を傾げた。


 六番山口が四球で出塁し、二死一二塁に。


 打席に立つ七番福山の背をベンチから見る。

 一回一回のスイングに気迫がある。

 タイミングが合わなくても負けはしないと、バットを操作してファールゾーンに飛ばして打席にいつづける。


「福山さんの打ち方を参考にしたんですよね」


 友樹が隣の草薙にそう言ったのは、本当に何気なく、だった。


「どうして分かったの?」


 草薙が顔を強張らせたのがどうしてか、友樹にはさっぱり分からない。


「練習中にそう思ったんです。檜さんもそうです。三人で教えあっていたんですか?」


 草薙は何も答えない。


 福山の気持ちが勝利した。一塁ベースに立つ福山はガッツポーズした。


 ベンチに向けてガッツポーズしたように見えるが、友樹には草薙にあてたガッツポーズだと分かった。不思議な直感だ。


 二死満塁で星野はギアを上げたようだった。

 八番檜を追いこむ。


 追い込まれた檜は、それでも何としても打とうと負けないようにカットした。三振してベンチに帰って来た檜は、いつもより悔しそうだった。


 三人ともリトルの頃から一緒。続く絆が羨ましい。だけど仕方がない。


 今の俺には今の俺が持っているものしかないのだと友樹は分かった。実力も何もかも、今から作り始めよう。


 五回が終わり、七対五。


 六回表。


 青森山桜は三番からの好打順。


 遠園のピッチャーはエース高見に。


 三番打者の打球が三遊間深い位置に飛び、横っ飛びした草薙が抑えた。一塁上で三番打者が草薙の送球に驚いていた。


 女子であることと男子に混ざる野球選手であることは両立するが、時に驚きを伴う。


 四番打者の打球が三遊間後方かレフトか、際どい位置に飛ぶ。


 桜井と山口も走ったが、捕ったのは草薙だった。

 これぞショート。

 友樹は好奇心いっぱいに草薙を見る。


 自分が試合に出られる機会も今は珍しいが、ショート草薙も今は珍しいのだ。よく見ておかないと。


 五番打者の初球打ちが三遊間を鋭く抜けようとしたが、草薙のダイビングキャッチが抑え込む。


 スリーアウトを一人で取った草薙に、球場の視線が集まったことが友樹には分かった。


 土に汚れ、帽子の下に結んだ髪を跳ねさせ、ガラスの刃のように相手を刺す。


 美しい。やはり草薙はガラスの向こう側にいる。


「悪くないな」


 ベンチに戻り草薙のショートを褒めたのは高見だった。


「これは凄く褒めているぞ」


 坂崎が補足した。


「ありがとうございます」


 礼を言った草薙は喜んだだろうか。分からないほどに冷静な顔で、いつもどおりだった。

 草薙がいつもどおりになり、友樹は嬉しい。


「よかったですね!」


「エラーしたのに、皆が許してくれる。優しいよね」


 草薙は少し力が抜けているようだった。


「普段から誰よりも頑張っているからだと思います」


 浅見コーチのノックを草薙が一番受けていると誰もが知っている。


「井原はさ」


 草薙が少し呼吸を整えている。


「ノートに周りの人の弱点や欠点を書く?」


 切実といってもいいくらいに真剣な問いだった。


 どうだろうか。

 遠園シニアにくる前は自分のことばかりだった。


 草薙の動画を見てから草薙が登場し、次に姫宮が登場した。

 相手チームのことを書くようになったのはついこの前からだ。


「あまり書いてないです。少し前まで自分のことしか書いてなかったんです」


「そう」


 草薙は少し緊張しているように見える。


「もしかして、福山さんや檜さんの弱点や欠点を書いていたんですか?」


「そうだよ。本人に教えもせずに」


 草薙は自分が悪いことをしていると思っているみたいに、控えめな笑みを浮かべていた。


 もしかして、周りの弱点と欠点から学んでいたのだろうか。


 友樹の表情を見て、友樹が理解したと草薙は思ったらしく、真面目な顔になった。


「追い越すことしか考えていないときはよかったけど、皆を守る立場になると思うと、ね」


 友樹は黙った。何を言ったらいいのか分からない。


 周りの弱点や欠点を書き連ねたノートでも、草薙が努力したのは確かなことだ。


 だけど草薙だってそんなごく普通のことは分かっているだろう。


 草薙が本当に思っていることはきっと、他にある。

 草薙が何を思っているのか、正確には分からない。


 分からないけれど不安ではなかった。

 草薙はきっと友樹に何かを言ってほしいわけではないのだと、そのことだけは分かったからだ。


 草薙のノートを見せてほしいと言うのはやめよう。草薙そのものを見ていればいいのだ。


 球場が草薙に見惚れたように、草薙のプレーに草薙のすべてが宿っているのだから。

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