第52話「楽しい?」

 四回裏。


「よし! 行ってくる」


 八番檜が草薙に振りかえり、いつになく気合いを入れる。いきなりショートになった草薙を鼓舞するみたいだった。


 草薙はいつもみたいに軽口を叩かず、ひらっと手を振っただけだ。

 檜の表情が変わり、何かを言おうとしたが、やめて真っ直ぐに打席へ行った。


 檜がバットを短く持ち、長打狙いをばっさり切り捨てたミート重視のスイングをする。

 檜は粘る。


 青森山桜さんおうのピッチャーはこの回から星野に交代した。


 檜は四球でもヒットでもなんでも、という心意気を見せ、際どいところをカットする。


 インハイを早く振ってファールゾーンへ逃す。アウトローを遅く振ってファールゾーンへ飛ばす。


 友樹の隣で福山が声を張りあげ応援している。友樹も応援していたが、草薙がいないことに気づいた。


 草薙はベンチの奥でじっとしていた。

 いつもと違う。

 まさか、草薙さんはショートになったことを緊張しているのかと友樹は考えたが、それがなぜかは分からない。一年生大会でもショートを務めた経験があるし、何より申し分ない実力を持つ。


 友樹はそっとベンチの奥に行った。


「草薙さん」


 友樹の声に、草薙の反応は鈍い。


「檜さんがカットしてます。見ましょうよ」


「ここからでも見える」


「でも近くで見たほうが楽しいですよ」


「楽しい?」


 草薙の目が鋭利に細められた。友樹はびくりと肩を震わせた。


 その時、檜が星野のフォークを振らされてしまい三振した。

 草薙は何も言わず、そのままベンチの椅子から腰を上げなかった。


 次は九番、ピッチャーでもある三原だ。打つのはあまり上手くないようで、三原はファールフライであっさりとアウトになった。


 打順は一番岡野に。

 サードを守る岡野は、草薙がショート、友樹がセカンドになったことを決して歓迎していないと、友樹は感じていた。


 新藤と軟式チームの頃から二遊間を組んでいた彼は、今の状況が一際苦しいはずだ。友樹は静かに祈ることしかできない。


 岡野は厳しい表情で打席に立つ。岡野がリラックスできていないと、友樹でさえ気がつく。


「しっかり……!」


 新藤が叫ぼうとしたがうまく声を出せず、咳きこむ。新藤の背に浅見コーチの手が添えられた。


 三振して戻ってきた岡野は悔しそうに、血が出そうなほど唇を強く噛んでいた。岡野さんまで血を流すつもりですかと、友樹は心が痛くなった。


 四回が終了し、五対四で青森山桜のリード。


 五回表。


 五番打者のファールボールが一塁線ぎりぎりを抜けていった。


 なんて速い打球だ。

 友樹のすぐ隣を抜けたわけではないのに、打球が空気を切り裂くのを感じるようだった。

 友樹は土をならしながら深呼吸する。

 考えている暇はきっとない。今までやってきたことに賭けて、全力で行くしかない。


 三原に坂崎が声をかけに行っている。三原は大丈夫そうだ。その時間をありがたく使い、土をしっかりとならす。できることは全てやる。


 五番打者がスイングの角度を調整する。五番打者の試行錯誤は冷静だ。


 勝負というものはときに静かなきめ細やかさが左右するのだろう。友樹は足元の土をもう一度確認し直した。


 五番打者は冷静な調整を終えると、豪快なスイングをした。センター前に抜けるかもしれないが、友樹は土を蹴り必死に飛びつく。

 グラブに勢いよく白球が入ってきた。


 急いで起きあがり、送球する。福山が胸前でキャッチ。アウト。


 福山がミットとボールをじっと見つめて、そしてこちらを見てきた。

 どうしたのだろうかと友樹は驚いた。

 福山は前みたいに怖い顔をしていない。


 アウト後のボール回しだ。福山からボールが投げられる。彼がちらりと笑顔を見せた。投げられた球は交代直後と違って力強いものだった。


 きっと友樹を認めてくれたのだ。友樹は嬉しくなり、うんと力を込めて草薙にボールを回した。


 草薙が捕球してから岡野に送球するまでの間がいつもより長い。

 友樹は気になった。


 六番打者も必死にスイングの角度を変えようとしている。三原の雰囲気が険しくなってきた。

 先程友樹に言ったことは謙遜ではなく本心だったのだ。不安といってもいいのかもしれない。


 一球目、高く上がった球がバックネットをがっつりと揺らした。これは少々まずいか。


 二球目、ついにバットの軌道が修正された。


 バットとボールが当たると同時に友樹は踏みだしたが、打球が高く、ジャンプしても届かない。センター前ヒットになった。


 一死一塁。


 七番打者がレフト前ヒットを打ち、一死一二塁。八番打者がセンター後方に二塁打を打ち、青森は一得点。やはり手強い。友樹は袖で汗を拭った。


 九番のピッチャー星野にはセカンドにライナーを打たせることができた。

 白球が友樹の黒のグラブに綺麗にはまる。


 二三塁だが、二死だ。

 一番打者がなんとしても得点するという強気な顔つきだ。


 痛烈な打撃音。打球は前へ。

 しかしそこには草薙がいる。

 もう大丈夫、これで交代だと、友樹は思った。


 草薙の茶のグラブが白球を弾いた。


 ポロリと転がる。嘘だ、と思ったのは友樹だけでないと、草薙の顔を見て分かった。


 草薙は精彩を欠いた動きでボールを拾い直した。白く血の気のない顔で草薙がファーストへ投げる。セーフになった。青森山桜は追加点。


 一体、草薙はどうしたというのか。気がつけば友樹は一二塁間から二遊間に踏みだしていた。草薙は大人しくじっとしていた。


「草薙さん! どうしたんですか!」

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