第51話 三番セカンド友樹

 監督の言葉に、新藤はうなだれるように俯いたがそれは一瞬のことだった。すぐに無理をして背筋を正した。


 友樹は新藤の痛みに耐える姿に胸が締めつけられるようだった。


「ショートとセカンドを交代する」


 一人だけでないのかと、ベンチがざわっとした。


「セカンドは井原」


 ベンチは驚きと、大きな不安に包まれた。


 友樹は三回戦で九番セカンドとして出場した経験があるが、その時と状況が大きく違う。

 新藤の穴を埋めるのが一年生だということに、誰もが動揺している。


 友樹は暗い空気が肌に触れるのを感じた。


「はい」


 友樹は自分の声にびっくりした。この空気なのにまるで落ち着いている。


 確かに試合には出たかった。だけどこのような形で出たかったわけではない。それなのに、嬉しくないと言えば嘘になる。


 穴を埋めるに相応しいと思われることは喜びだ。どんな状況であっても試合に出られるのを喜ぶのが選手の務め。選ばれるものなのだから。


 だけど、少し嫌と言えば嫌だな。


 今の俺の「はい」を聞いたら、きっと誰も俺が何も思っていないと思うだろうなと、友樹は少し不安になった。


「ショートは草薙だ」


「はい」


 さすがだと、友樹は草薙の声色が平常心であることに改めて憧れ直した。


 実力以上に精神的支柱である新藤の代役さえ恐れていないのだ。それほどまでに自らの実力を信頼しているし、実際に実力がある。


 単純な守備の力だけで言えば、新藤より草薙の方が上だと意見する人もたくさんいるだろう。友樹もその一人だ。


 友樹はベンチの眼差しにはっとした。


 岡野や山口が、何かを我慢している。

 檜が笑顔の裏に悔しさを隠そうとしている。

 福山が置いて行かれたように俯いている。


 草薙と争いにならない選手以外は、誰もが何かを思っている。


 それなのに、草薙は何一つ感じていないように見える。


 きっと、草薙さんは何も感じないほどに今まで戦ってきたのだと、友樹は考えてみる。


 親に野球を反対されても続け、姫宮に野球を辞めろと言われても我慢する。

 耐え続けて、耐えることに慣れて、平気になったのだろう。


 それはいいことなのかどうか、友樹には分からない。

 だけど、例えそれが悪いことだったとしても、草薙さんはそうなってしまったのですねと、受け止めるしかない。


 新藤が鼻に入れていたティッシュを苦しそうに取った。真っ赤だった。


「草薙なら大丈夫だ。任せる」


 掠れた苦しそうな声で発した新藤の言葉に、ベンチの不安が溶けて流れていく。


「井原も大丈夫だ。俺は信じるから」


 やはり憧れのキャプテンだ。友樹は自分の体の強張りが少し緩んだことに気づいた。


 新藤に背を押された気持ちで、安心して草薙を見上げた。


 草薙が目を伏せていることに気づいてしまった。


 草薙さんまで怖気づいているのですかと、友樹は不思議になった。


 草薙の恐怖が伝染したのとは違う。草薙にしっかりしてくれと思ったのとも違う。

 憧れのガラスの幕の向こうにいた人が、突然隣にいるように感じられたのだ。


 グラブはベンチにいるときも身につけている。手がグラブの中にある感覚が好きなのだ。いつだってそのままグラウンドへ出ていける。


 青森山桜さんおうのスタンドにいる選手たちや、スカウト。これまでの試合と人数が違う。


 それぞれのチームの保護者。草薙の両親もいる。選手とは見られるもの。それは当然だ。野球は皆で見て楽しむものなのだから。


 だから臆するわけにはいかない。天に見下ろされ、ぐるりと観客に見渡されても、「それがどうした」と思っていたい。


 四回表が始まる前に内野手でボール回しをする。


 ショートとなった草薙の綺麗な送球を受け取った。

 草薙が臆した顔をしていたのは一瞬のことだった。ショートとして申し分ない力を持っていることが、ボール回しの時点で分かるのだ。


 セカンドとして、友樹の力をボールに添え、福山へ投げる。


 福山さんは不安なんですねと思っても、彼の不安を拭う言葉を友樹は持たない。それならばファーストミットのど真ん中、福山がほんの少しも体勢を変えずに受け取れるところに投げ続けるだけだ。

 守備だけなら友樹に不足はないと分かってもらえるように。


 友樹の打順は三番だ。

 そればかりは正直重たい。だからこそ友樹は元気に声を出し、投げる。

 三番が巡ってくるまでに少しでも体の熱を上げるために。

 新藤さんの力になりたい。


 四回表。


 遠園のピッチャーは稲葉から三原に。


 三原が坂崎と長く話している。坂崎が三原の背を軽く叩く。最後に頷き合ってマウンドとホームに別れた。


 珍しいアンダースローだが、全国屈指の青森山桜なら戦ったことがあるかもしれない。それでもきっと、勝算はあるはずだ。


 三原の柔らかなフォームのアンダースローから投球が繰り出される。そのフォームに二番打者は束の間、面白そうな顔をした。


 一球目、低めアウトコースに外れたボール球を見られた。


 二球目も、ゾーンから落ちていくボール球を振らせることができなかった。


 三球目、ついに低めの球を打たれた。


 しかし打球は飛ばず、至近距離に勢いよく落ちてぼんっと跳ねるだけだ。友樹が走って前進して捕り、福山にトスしてワンアウト。


 ベンチの緊張が少し解け、喜んでいるのが友樹にも伝わってくる。


 三原が友樹を褒めるように手を振ってきた。友樹は嬉しくなり、やはり守備なら戦えるのだと、勇気を得た。


 次は三番打者。強打者が続く。素振りを見ているだけで、一人を抑えたくらいでは安心できないと思わせられる。


 友樹は三番打者のスイングが下から上に振り上げる軌道だと気がついた。


 三番打者だけでなく投手の鳥海以外の全員が下から上に振るアッパースイングだと思いだす。


 そのことにようやく気がついた。今後は守備だけでなく相手チームの攻撃もよく観察しなければ。


 三原がアッパースイングと対峙するが、彼に一つも恐れはない。

 三原が下から、高めに投げた。打者のアッパースイングを裏目に出させる。


 高々と一塁付近にフライが上がった。福山が簡単にアウトを取った。


 四番打者もアッパースイング。こちらはレフトへ大きなフライ。桜井が余裕たっぷりで捕った。


 なるほどなあと、友樹は楽しくなってきた。

 下から上へ振ることで沢や稲葉の落ちる球を餌食にしたが、下から投げられる三原の球を打ち上げてしまう。

 青森山桜を三者凡退に!


「凄いです! 打ち上げさせました!」


 友樹にだって、知識としてはあった。

 だがこの目で見ると面白くてつい、はしゃいでしまう。

 ベンチへ駆けながらはしゃぐ友樹に、三原は笑った。


「対応されるまでどのくらいかかるか、だよね」


 三原は穏やかにさくっと応じた。


 すると檜と福山が追いついた。


「お前はまだ小学生かー?」


「三原さん舐めんなよー」


 二年生二人に挟まれてあたふたする友樹に、檜は特ににやりとした。そして草薙がいる後ろを振りかえる。


「香梨も何か言ってやれよー」


 福山も三原も笑っているが、草薙は無視した。特に表情はなく、普段より遅く走っている。


「なんだよもう」


 檜は苦笑して、スピードを上げてすぐベンチに戻った。福山は草薙をちらちら振りかえりながら走る。


 普段の草薙なら、檜や福山に何かを言いそうなものだ。

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