第42話「そんなに野球が好きなのか」
田辺が檜に四球を出した。
一死一塁で友樹は打席へ。
対峙するピッチャーの怖さなんて、草薙に伝えたいたくさんのことに比べたら小さなものだ。
打撃の理論は沢山あって、人によって違うからいつまでも研究が終わらないものだ。果てしない謎なのに、バットを握ればこんなに楽しい。
楽しいけれど三振。こればかりは悔しい。
「草薙さん」
友樹はネクストバッターサークルから立ち上がる草薙に駆けよった。
「カーブはいまいちでしたよ」
草薙が切れ長の目をぱちっと開き、そして細めて頷いた。
一番草薙が初球カーブを見事に打ち返しレフト前ヒット。たった今更新されたデータをすぐに飲み込み、変化する。
二番岡野が打った球を、またしても姫宮が捌く。
二死一二塁で三番新藤。新藤ならきっと打ってくれると信じられる。
新藤が三遊間を破った。姫宮が間に合わなかった。友樹は新藤と姫宮のどちらを見ればいいか分からなかった。
二死満塁で四番桜井。
センター前にいい打球を放った、しかし姫宮が追いついた。結果的にショートライナーだ。遠園ベンチは驚きでざわついた。
友樹はどきどきしていた。相手チームの好守にこんなに惹かれていいのだろうか?
二対ゼロで七回裏を迎える。
打順は二番姫宮から。
友樹は下手に予測するのをやめて一二塁間の深い位置に構えた。どんな打球でも確実に処理できるように。
高見は少し疲れているはずだが、そのような姿を見せない。友樹は声をかけにいけないから、そこは新藤と岡野に任せよう。
俺はただ、守るのだと、友樹は猫目を細めた。
打球は高く一二塁間を飛ぶ。ジャンプしても無理だった。悔しいが、綺麗な右打ちだと認めざるを得ない。
姫宮は強い。友樹の胸の奥に、じりじりしたものが浮かぶ。同じ場所にいても、姫宮は違うところにいる気がする。ガラス一枚隔てている気がする。ガラスを粉々にして会いに行きたくても冷たく阻まれる。友樹の熱が上がる。姫宮に勝ちたい。
三番打者がセンター後方、かなり深い位置に打った。
一塁走者姫宮にホームまで還られると思った。
しかし草薙がすぐに追いついて、ワンバウンドで捕球した。あらかじめ後ろにいたのだ。
かなり遠い距離だ。二人がかりの中継が必要だ。新藤が外野の浅い位置で両手を大きく広げて草薙に中継を示す。友樹はマウンドの横へ。
草薙から、思いっきり助走をつけた遠投。それを捕った新藤の力強くも荒々しい送球。
友樹はどんな送球も逸らさない。そしてどんなときも完璧な送球をする。
友樹のバックホームを受け取った坂崎はそのままの流れでタッチした。捕球とタッチを一連の動きにできるほど素晴らしいバックホームだった。
「アウト!」
姫宮は土を叩いて悔しがった。友樹はその姿にわくわくした。姫宮に勝ち、不足が一つもないような気分だ。
だがそれだけではない。姫宮の本気で悔しがる姿に、またこれからも何度も戦うのだという予感がする。これからも続いていく。空から降る日光が、柔らかくなってきた。このまま日は沈み、また昇る。
姫宮との戦いは何度も繰り返す。揺さぶりたいような揺さぶられたいような、不思議な気持ち。
一死二塁で次は四番だ。
速い打球がセンター前に抜けようとした。滝岡のベンチがヒットだとわく。
友樹は、思い切ってダイビングキャッチした。ボールがグラブにしっかりと納まった。
セカンドランナーが必死に戻ろうとする。
友樹は必死に立ち上がり、ステップせず、セカンドベースに入った新藤に投げた。
「アウト!」
アウトになった滝岡の四番打者は悔しがるかと思いきや、笑った。
試合終了。遠園の勝利だ!
遠園シニアのベンチが大喜びでベンチから出てきて、グラウンドに整列した。
滝岡の四番が歩いてきた。
「お前、凄いな」
涙が出そうで、頭を下げることしかできなかった。
好きなプロ野球選手の動画を見て真似をした投げかただったから。
勝利にわく中、友樹は椅子に座っている草薙にドリンクを渡しに行った。草薙は友樹についてこられるのを諦めたように受け入れていた。
「俺の最後の投げかた、プロ野球選手の試合を見て学んだんです」
「そうなんだね」
草薙は友樹をそっと見上げてくれた。
「こうして実際にプレーするために集めたデータです」
友樹は椅子一つ空けた隣に座った。草薙が控えめに微笑んだ。彼女は持ったドリンクに視線を落とす。
「マネージャーが集めたデータも、選手が実際にプレーするよ」
「草薙さんが作ったデータなんだから、草薙さんのために使いましょうよ! 草薙さんがレギュラーになって勝つために」
草薙が結んだ髪の毛先をいじったが、すぐにその手を止めた。
「マネージャーにならなきゃ野球を続けられないなら、私はマネージャーをやるよ。あんただってそうなんじゃないの?」
友樹ははっとして口を閉ざした。
自分でグラウンドに立てなくなったからといって、手放したくない宝物。
野球のことを考えている時間は大切なもので、目には見えなくても面白さはしっかりとある。
今まで自分がやってきたことが全てマネージャーになっても活きるものだったのなら、俺に草薙さんがマネージャーになることを止めることはできないと友樹は思った。それは自らの人生を否定することで、無責任なことだ。
「はい、俺もそうします」
草薙は大きく頷いて水筒の蓋を開けた。
夕日の中、やはり姫宮がやって来る。
「香梨ちゃん、センターもできるんだね。やっぱりソフトにいけ」
「あのさ、姫宮」
ついに草薙が言い返すのかと、何人かが振り向いた。
「あんたは私に選手でいてほしい?」
「もちろん」
「野球をできるのならマネージャーでもいいって、言ったらどうする?」
「やめろと言う」
「やっぱりね」
草薙が笑った。
「だから今まで何も言わなかったの」
姫宮が珍しく黙って草薙を見つめている。
「私はマネージャーになってでも野球を続けたい。だからソフトも陸上もしない」
姫宮は困った顔をしている。その気持ちは友樹にも分かる。選手でいたいのに、マネージャーになるなんて。
「そんなに野球が好きなのか」
「もちろん。そうじゃなかったら男子の中に混じらない」
「そうか」
姫宮が一歩引いた。
「まあでも、マネージャーにはなるなよ」
姫宮はそのまま背を向け、滝岡の皆の元へ帰って行った。
やっぱり、言い返せばすぐ帰ったじゃないかと友樹は納得していたが、草薙は驚いた顔で姫宮が去っていったほうを見つめていた。
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