第41話「野球をやりたい」
草薙が三塁にいる。
「僅かに送球が逸れたんだよ。草薙もよくやるよ」
新藤が楽しそうな様子をいつもより表に出している。
姫宮がセンターの背を撫でて励ましている。
「新藤さん。草薙さんは俺に越されたくないと言ったんですけど」
「あいつらしいな」
「そんなにすぐには越せないと思うんですけど」
だよな、などと軽い返事が返ってくると思っていたが、沈黙が訪れた。
「草薙も必死なんだよ」
必死には見えない。草薙の技は華麗だ。必死に身につけた技ということなのだろうか。
二番岡野が打席に入ると三番である新藤がネクストバッターサークルに入った。
ダイビングキャッチも、打球予測も必死になって身につけたと思うと、見た目の印象と全く違う。ひんやりしていて感情が読めなくて、淡々とプレーしていて、たまに美しく大きく動く。それが必死だったなんて、不思議さと面白さを感じる。
岡野の一二塁間を抜けるヒットで草薙が還って来た。これで二点だ。
「いい走りでした!」
「姫宮みたいに褒めないでよ」
必死だったと知れば、美しいという思いだけでなく、他の思いも湧いた。
「やっぱり一緒に練習したいです」
「いつかね」
軽く流されて友樹は口を尖らせた。
「草薙さんが女子野球に行ったら一緒に練習できなくなるじゃないですか」
あと二年でどれほど練習できるか。少しでも多く学べるだろうか。
草薙が目を丸くした。
「あんたは姫宮と逆の意見なんだね」
「はい。活躍できると思います」
草薙が苦い顔をした。また何かまずいことを言ったかと思ったが、今回はまずいことを言った覚えがない。
「草薙さん?」
「あ、いや」
草薙がドリンクを飲んだ。そして言った。
「練習といえば」
草薙の声はいつもより小さかった。
「井原はノートに書くような練習もしてたんだよね?」
「はい!」
ぴょんと飛びついた友樹に草薙は少し驚いているが、友樹は気にならなかった。前に少しだけ話した言葉を覚えていてくれたのだ。
「草薙さんも書いているんですよね!」
草薙は固い表情だ。
「うん、書いてる」
もしかして、一緒に練習はしないが、書いたものだけは見せてくれるのだろうかと、友樹は勝手にわくわくした。
「それも野球と言えるよね?」
「はい!」
「……やっぱり」
草薙が弱気な顔をしたので、友樹の浮かれた気分が一気に元に戻った。
「野球だと思います」
綺麗なプレーを夢見て描いた図やデータ。それらを見るだけで頭の中でグラウンドを動く選手をイメージできる。頭の中とはいえ野球はいつでもそばにあった。
「野球だよ」
やっぱり。友樹は嬉しくなった。しかし草薙は浮かない顔をしている。
「あんたが言ったでしょ? 親に反対されているって」
「……はい、すみませんでした」
「いいの、それは。本当のことだから」
草薙が水筒を置いた。
「データを作ることも野球なら、男子の高校野球のマネージャーになっても野球をできるってことになる」
「なりたいんですか?」
友樹の純粋な問いに、草薙は弱ったような顔をした。
「なりたくないよ」
「なりたくないなら、ならなきゃいいじゃないですか」
「父も母もマネージャーなら応援してくれる」
「そうかもしれないですけど……」
草薙は、ふふ、と笑った。
「野球をやりたい。それが一番大切なことなの。マネージャーになってでもやりたい」
草薙はそれ以上何も言わなかった。
友樹は何も言えなかった。友樹は動画を見て、本を見て、たくさんのデータを見て毎日幸せだった。
マネージャーをやることは野球じゃないと言うのは、友樹が自らを否定することになる。草薙の今までを否定することになる。
だけどそれでいいのか?
本当は選手になりたいのに、野球をするために選手であり続けることを辞めていいのか?
友樹と草薙の野球は、果たしてデータだけで完結していたのか?
六回裏。
友樹はやや一塁よりに構えた。しかし打球は二塁側に来たので、友樹は横っ飛びをして捕った。
「いいぞ!」
新藤たちがナイスプレーだと言う。だけどまだまだだ。姫宮みたいにできていない。
打球が左中間へ。草薙とレフト桜井がそれぞれ追いかけ、草薙が捕った。二人とも衝突しないように弧を描く走りをした。外野手の綺麗な動きだ。
三遊間に来たボールを前にいたサード岡野が捕れず、後ろにいた新藤が捕り、強い肩でファーストへ送球。ファースト福山が腕を伸ばして見事に捕球してアウト。
「よし、行くぞ!」
おう! と声が重なる。
空の下、グラウンドで走る。捕る。時に予測する。時に行き当たりばったりになる。仲間がカバーしてくれる。仲間のカバーをする。
データを作ることも野球だけど、こうしてグラウンドに立つ野球が一番大切なのではないですかと、草薙に問いかけたい。
七回表。
打順は七番福山から。滝岡のピッチャーはこの回から登板する田辺だ。
「頑張れ!」
ベンチから皆で声援を送る。福山が打席で悠々と構える。親しい友達から草薙が目を離さないので、友樹は話しかけるタイミングになるまで待っている。
田辺のフォークに大きな空振り。
「あー! くそ!」
悔しいのに、福山はどこか楽しそうに笑っている。
「三振したとか言って、悪かったな!」
福山が草薙にからりと話しかける。
「まあね」
草薙が福山にドリンクを手渡した。
八番檜が打席に立つ。
友樹はネクストバッターサークルへ。
打席や守備位置に立つときのためにデータを作っていたのだ。だからきっと、打席や守備位置に立ったときがデータの完成なのだ。
データと実際のゲームが一致することが友樹の野球ノートの最大の楽しみだった。最近は実際のゲームをたくさん経験できていたから、一致どころか集めたデータの量を経験が超えてしまう。
データを作ることが野球と言えるのなら、そのデータを自分のために使うことを望んで当然じゃないですか? 草薙に聞きたい。
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