第3話 1年生の紅白戦
いつもと違う張りのある声で切りだしたのは母だ。髪を綺麗に結いあげてカジュアルだが、人と会う服を着ていると、病人ではないように見えた。
浅見から遠園シニアの説明を聞いた両親の顔色をそっと盗み見る。二人とも反対どころか、むしろ友樹が評価されたことを喜んでくれている。
だが、送り迎えが片道一時間であること、当番制で親が手伝いに行くことの話になると、母の笑顔は固まり、父も少し俯いた。
やはり駄目だろうなと、友樹も俯く。しかたない。大丈夫だよ、中学でやるからと友樹が言おうとした、そのときだった。
「事情を話して誰かに当番を代わってもらうことはできますでしょうか? ささやかながらお礼もします」
母の思いきった提案に、父もすぐ加勢した。
「私らが直接他の子の親御さんに頼みます。よろしいでしょうか?」
いつになく積極的な両親に驚いている友樹だが、浅見は大して驚いていないようだった。
「今度、新入生同士の紅白戦が行われます。子供たちのご両親も皆さん集まると思いますから、その日に挨拶すればいいと思います」
友樹は驚いていた。自分のことが大人たちの間で決められていく、不安定な気持ち。
普段は弱弱しいのに友樹を助けるために頑張ろうとする母に頼もしさを感じる気持ち。
仕事と母の面倒を看るのに忙しいという顔をしていた父も協力してくれる。
「シニアに入団するかどうかはその後に決めていただいて構いません」
にこやかな浅見に両親が頭を下げるのを見て、友樹も慌てて頭を下げた。
そろそろ話し合いは終わったかと友樹が思ったとき、浅見が友樹に笑いかけた。
なんだろうと思っていると、浅見がバットのケースをテーブルの上の食器にぶつからないように、慎重に友樹に手渡した。
「開けてみて」
ファスナーを開ける。
硬式用の練習用バットだ。
「俺が高校生の頃まで使っていたものだよ」
相当な努力をしたようで、傷がたくさんある。
だが、大切に保管していたようで、まだ十分に使える。
今までの大人たちの会話を聞いていた不安な気持ちが一つ残らず吹っ飛んだ。
バットに手を沿わせる。
「ありがとうございます!」
友樹の喜ぶ姿を大人三人が愛おしそうに見ていたが、友樹はそこまで気がつかない。
「硬式用のグラブのご用意は?」
「まだです」
浅見が友樹をそのままスポーツ用品店に連れていってくれることになった。両親は先に車で帰ることになり、母の体調を気にしていた父は浅見に感謝していた。
棚と壁にずらりと並ぶ、存在感を放つ硬式グラブ。
サイズを測った後、いくつかの候補の中から選ぶ。
これだと思ったものがあった。
黒のシンプルなデザインのグラブ。そのグラブに手を入れた友樹は何も言わず、じっとグラブを見つめていた。
手を入れた途端に、グラブは自分のものになった、といえるほどに友樹は愛着を抱いた。
グラブを見たり持ったりするのと、実際に身につけるのとは気持ちが違う。
手にはめるとグラブが愛おしく思え、もう他の人に渡したくなくなる。
「これにします」
父から預かっていたお金と浅見がくれた割引券で購入した。
友樹がひたすらたくさんの道具に夢中になっていると、浅見が友樹を手招きする。
「これは俺からプレゼントだよ」
硬球六個だ。これで硬式の練習ができる。
「ありがとうございます!」
帰りの車の中でも、家に着いてからも、友樹はずっと左手にグラブを身につけていた。
○
四月に入ったばかりのまだ肌寒い土曜日。
町中から離れた、丘の上の林を切りひらいて作られたグラウンドに到着した。
東チームとは比べ物にならない密度のウォーミングアップに疲弊している友樹だが、紅白戦はこれからだ。父と母は既に保護者たちが集まるバックネット裏にいる。
割りばしが入った箱が回って来る。割りばしの先が白で塗られていた。
白チームの一塁側に集まると、見覚えのある顔があった。
「あれ? ここに来たの?」
向こうも驚いている。
「俺は
「井原友樹だよ」
茜一郎は中央チームのショートだった選手だ。スポーツ刈りではっきりした顔立ちをしている。
白チームの監督を務めるのは浅見だった。
「守備走塁コーチの浅見渚です。オーダーを発表するよ」
友樹がショートだと言われ、所属していたチームも発表されると白チームがどよめいた。
なんであんな弱小出身がいきなりショートなんだというざわめきに、友樹は気まずいがやり過ごすことしかできない。
「へーえ」
茜一郎はにやにやする。
何か言ってくれた方が、まだ気が楽だったかもしれないと友樹は思った。
誰もが友樹より背が高い。投げられた球をグラブで受け取ると友樹は目を丸くした。
東チームの皆と段違いだとキャッチボールだけで分かってしまう。同じ年なのにこんなに違うのかという恐怖があるが、それ以上にわくわくした。
うまい人たちと一緒にやればもっとうまくなれる。
それならばこれからどうなっていくのだろうか。
試合前のボール回しとノックが始まる。怖いけれど、やはりここにきて正解だった。
にこりと口角が上がった友樹は一歩ステップした。
無駄な力みが取れてきた友樹は本来の動きになっていく。
「やっぱり」
セカンドとして出場する茜一郎が、友樹の動きを見て納得したように呟いていた。
試合が始まる。紅白が列になり、礼をする。
すると、紅チームの一人が友樹と茜一郎を見てくすりと感じ悪く笑った。
紅チームのノックでショートの位置にいた奴だ。
「軟式に大事なポジションを任せちゃって」
「ああ?」
最強の軟式である中央だった茜一郎は、気にくわない様子だった。
白組が先攻で紅組が後攻だ。コーチがプレイボール! と叫ぶ。この大事な状況であっても、久しぶりの試合にわくわくする気持ちが勝つ。
一回表。
一番打者は茜一郎。力強い構えだ。
ベンチの皆が緊張しながらも声を出す。友樹も精いっぱいの声を腹から出す。
茜一郎の打球は勢いよく高く上がる詰まったフライになってしまい、先ほど馬鹿にしてきたショートがあっさり捕ってしまった。
茜一郎だけでなく友樹も悔しい。
「あいつは?」
チームメイトの中央チーム出身の人がリトル出身の人に聞いた。
「
友樹はその名前を心の隅に留めておいた。
真っ直ぐで耳より下までの長めの髪で、タレ目がちで丸い輪郭という可愛げのある顔立ちだ。
だが浮かべる表情は生意気そのものだった。
白チームは三者凡退。
一回裏。
友樹たちの守備。
「よろしく頼むよ」
「うん」
茜一郎と友樹は軽くポジショニングの相談をするとそれぞれの位置についた。
大志も一番打者だった。
バットを短く持っている。
ピッチャーの横を越えるライナー。軟式より速い打球に考えている暇などなく、今までの練習の経験からなる勘で体が動いた。
走りながらの逆シングルでキャッチした。
真新しいグラブにしっかりと硬球が納まったのを見た友樹は叫び、ガッツポーズをした。
「いいぞいいぞ!」
茜一郎が大喜びしている。
一方、大志は苦々しい顔をしていた。
友樹のファインプレーを内外野、ベンチにいる人もくぎ付けになって見つめた。それだけでなく、フェンスの外の保護者全員が顔を向けた。
二回表。
二死で六番の友樹の打順が来た。
バットにしっかり当てたがうまく飛ばず、詰まったフライとなる。
キャッチした大志の笑顔がちょっと憎たらしい。
だけど大志は上手だった。やはり硬式でやってきた人はうまい。
だが、勝負は始まったばかりだ。守備位置につくと、友樹は猫のようにぱちっとした目で広い範囲を見渡した。
グラウンドの風を取り込むみたいに深呼吸をする。
バットの金属音と共に弾かれるように踏みだす。
試合は順調に進んでいった。
緊張がほぐれてきた三回の守備。
まるでボールの方が友樹のグラブに入ってくるようだった。
三遊間深い位置からの送球が、小柄な体に似合わないくらい力強い。
それでいてファーストの体勢を一切崩させないほど正確だ。
一死一塁。
一二塁間のゴロを茜一郎が素早く捌いて二塁へ投げた。
友樹は送球を受け取り、一塁へ投げる。
ダブルプレー成功で、茜一郎とハイタッチした。
まさかあの中央の人とハイタッチすることになるとは、と友樹は驚いていたが、茜一郎は当然のような顔をしていた。
四回の攻撃。
ランナー三塁で友樹の打順だ。
スクイズを狙う。
友樹は硬球のストレートの勢いをうまく殺して転がすことができた。
得点でき、ガッツポーズして叫ぶと仲間たちも声を出してくれた。
試合の半ばを迎える五回の守備。
弾丸ライナーが三遊間からレフトへ抜けようとしたが、友樹の横っ飛びが球を捕まえた。
友樹の今夜初めて着た練習着も土まみれになった。洗う母のことを考えれば少し申し訳ないが、それでもアウトにできたのでまあいいかということにした。
最終回、七回の攻撃。
一死二塁。
友樹は二度のファールで、ついに硬球の感覚を掴んだ。下から叩けばいいのだ。ぎりぎりまで球を見て、当てにいく。いい音と感触だった。
必死でスタートし一塁へ到達すると、まだボールは外野にある。
「回れ回れ!」
茜一郎や皆の声がする。友樹の初ヒットはツーベースになった。
白組が逆転し、ムードが一変する。
「次守れば勝つぞ!」
茜一郎を中心に白組が守備位置へ走る。
緊張感漂う、あと一つの場面。
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