第2話 動画の中のショート
友樹は浅見の手を取らなかった。
「ただいま」
家に入ると、パジャマを着たぼさぼさの髪の母が、たった今起きてきたと分かる緩慢な動作で友樹を出迎えた。
「おかえり」
友樹への笑顔だけは温かいが、彼女は怠そうにしている。
「早く寝てて」
友樹の言葉に従い、母は居間のソファベッドに横になった。
泥を払った野球道具を玄関のたたきにしまい、友樹は二人分の茶を淹れた。
「はい」
友樹がテーブルに茶を置くと、母は目を開けて体を起こした。
母が一口茶をすする間に、浅見のことを話すかどうか友樹は考えたが、切りださなかった。
母は体が弱く一日の半分以上を眠って過ごす。
リトルに行けなかったのは、彼女が車で片道一時間のリトルのグラウンドへの送り迎えができないためだ。
父も、土日は大抵働いているため送り迎えができない。
母が眠ったのを見届けると友樹は自室に行く。
自室は友樹の城である。
十畳の友樹の部屋の半分は本棚と映像ソフトとパソコンの棚だ。
残りの四分の一に玄関に収まらなかった野球道具を置く。
それらの残りに洋服ダンスと鏡、そしてベッドがある。
ベッドの上にも数個の軟式ボールが転がっている。
本棚ののれんをめくり、今まで録画してきたソフトを五本出した。
パソコンの電源ボタンを押した。そして本も三冊床に広げた。
たくさん録画した映像ソフトは古い物から新しい物まで合わせて六十本ほど。
本は全てひっくるめて四十冊ほど。
どのソフトもどの本も内容はだいたい覚えているが、習得してから見たり読んだりするとまた新しい発見があるので取っておく。
古いパソコンが立ち上がるまでの間に本をめくり、付箋を五箇所に張った。
パソコンが立ち上がる。動画サイトを開いた。
『しゃす!』とユーチューバーが挨拶をしたので、友樹も「しゃす!」と返す。
元プロ野球選手のユーチューバーだ。
『今日は『右に強い打球を打つ』には!』。
友樹はメモを片手に動画を十回繰り返し見た。
友樹は庭の雪の上を勢いよく走り、小さな車庫に入り、素振りを始めた。
素振りを繰り返す。自分の素振りを録画して、それを何度も見てやり直す。汗で手を滑らせスマホを落としかけたくらいだった。
「よし、いいぞ」
動画をチェックすると、最後に納得のいくスイングができた。
それを終えると車庫の壁にボールを当てて捕球するという壁打ちを始めた。
壁にとん、と投げて同じくらいの力で跳ね返る球を捕る。
これがショートバウンドを取る練習に最適だ。そしてリズムに乗って投げる力をどんどん強くする。
最終的には車庫の薄い壁をメリメリいわせる強さになる。ちなみに、車庫には既に五箇所、穴が空いている。
家に戻ると、母のいるリビングを素通りして自室に戻った。
友樹は母に野球のデータの虫になっている姿を、なんとなくあまり見せないようにしていた。
強いチームに行けない未練だと思わせたくなかった。
父に本をねだるときも、「お母さんには内緒に」といつも言う。
本当はばれている、とも感じているが。
友樹は自室の机の上にキャンパスノートを開いた。
『野球ノート三十七』
友樹は小学三年生の頃からつけている野球ノートのページをめくる。
一冊目から全てしまっている本棚が、そろそろ一杯になりそうだ。
文字と図で埋め尽くされたページが続く。何冊も書くごとに少しずつ洗練してきたページのレイアウトだ。
『二月二十五日』と書き、今日の走り込みと素振りとグラブトスの練習の成果を書いていく。
『どうして昨日よりよくなった?』それを書くことが友樹の野球ノートの最大の特徴である。
できないことではなく、できたことを書き、書けることを増やしていく。そして、なぜできたのかということを、最もページを割いて書く。
浅見の名刺を栞のように挟んだが、彼のことは書かなかった。
続いて、スマホで動画を見る。
今日は、浅見がやって来たきっかけとなったあの試合を見ることにした。
動画の中の、今より少し幼い自分が叫ぶ。
『しっかりしろ! いつもとやることは同じだ!』
そうだ。しっかりしなければならないのだ。
あの人が来ても来なくても、俺はただ毎日練習をしていればいいと友樹は思う。
ノートを付け、プロ野球選手の動画を見て練習した。
これからも続ければいい。
例えシニアではなくても。
それから一週間後。
「俺とキャッチボールしない?」
また、浅見が公園に来た。この人は一体何の仕事をしているのだろう。しかし友樹はさすがにそれは聞かなかった。
鞄から出てきた浅見のグラブは、友樹にも一目で分かるほどいいものだった。草野球などではまず使われないだろう。
浅見のことはよく分からないが、あのグラブとキャッチボールするのは楽しそうだと、友樹は頷いた。
鞄からしまったばかりのグラブを取り出した。
「よく手入れしているね」
グラブを褒められることは友樹を褒められることと同じだ。少し気分が上向いた。
浅見が軟式ボールを持ち、投げようとする。
モーションがよく、うまい人だと分かった。軌道は山なりを描かない遠慮のなさだ。
浅見からの一球が友樹のグラブにいい音を鳴らした。
ぞくっと、頬からうなじまで熱を持つ。この音を今まで聞いたことがない。
「ほら、投げ返して」
体幹から生まれる力が柔らかに手から離れて、浅見のグラブに綺麗にボールが納まった。
浅見が笑いだす。うまく投げていたと思うのに、と焦る友樹と裏腹に浅見はにっこりと満面の笑みを見せた。
それは少年のようでもあり、かつて少年だった大人のようでもある。
「あはは、最高」
最高ですか? そう尋ねる前に返ってきた球は先ほどより強い。
投げ返すと浅見が受け取り、右手にボールを持ち替える。
その動作を見るだけで浅見がうまいだけでなく強いと分かった。
強い送球でありながら捕りやすい。投げ返せば綺麗に受け止めてくれる。
「温まった?」
「はい」
少しずつ二人の距離が遠くなり、その度に熱が上がっていく。
浅見がついにステップして投げた。
友樹はしっかりと受け止め、同じくステップして投げようとしたが、浅見が慌てた様子で走って来たので、投げるのをやめた。
「駄目だよ、小学生がこんな距離投げちゃ」
「確かにそうですね」
えへへ、と笑いながら、子供のうちから遠投をしすぎないほうがいいとネットで見たのを思いだした。
それ以来友樹は内野の距離を完璧に投げることを目指し、外野からバックホームの距離は投げないようにしていた。
知識だけの練習方法。それでずっとやってきたのに、そんなことも忘れてしまった。
浅見をそっと見上げる。
気持ちのいいキャッチボールだった。
試合をしなくてもこのキャッチボールだけでも楽しいと言えるくらいだ。
やっぱりここの地域にはいない人だと改めて思う。都会から来たのだろうか。
「君みたいに才能がある子が……しかも野手が中途半端な軟式に行ったらもったいないなって思うんだ」
もったいないという言葉に胸が刺激される。友樹はダッフルコートのボタンを一つ外した。
浅見が鞄の中からタブレットを出して雪をものともせず立ち上げた。
画面に映ったのは綺麗なグラウンドだ。
上はネイビーにライトイエローのアクセントのあるデザインで、下は白いズボンのユニフォームを着た内野手たちがいる。
キャッチャーがサードへボールを投げ、サードがショートに投げ、セカンドへ、そしてファーストへ……と、ボール回しをしている。
速い。
そして綺麗だ。
試合開始前から、ボール回しだけで友樹は夢中になった。寒さを忘れて画面の中に心を飛ばした。
試合が始まった。薄い画面越しの観戦は、薄い氷がハンマーで叩かれて徐々に割られるような、むず痒さを感じる。
うまい人たちに心惹かれる。
画面の中のショートがセンターへ抜けようとしていたライナーを、ダイビングキャッチした。
その瞬間を永遠に巻き戻して再生し続けたい欲求が芽生えた。
「この子たちと、君も一緒にやらない?」
友樹は求めていたものをたった今自覚した。
むしろ今まで抑圧してきたのかもしれない。
俺はずっとずっとこれが欲しかったと分かった途端、もう戻れないところまで心が決まった。
欲しい野球がここにある。
「よろしくね」
浅見の手を握った友樹はため息をこらえるほど満たされた。
夜は雪が止み、静かだった。
はやる気持ちで適当に乾かしたせいで所々濡れた髪のまま、友樹は自室の机の上にキャンパスノートを開いた。
『三月二日』と書いて友樹の手が止まる。
あのキャッチボールをどんな言葉で書けば表せるだろうか。
友樹は浅見から動画データをスマホに貰った。去年の岩手県一年生大会の決勝の動画だそうだ。
浅見が見せてくれた一回の守備で、ショートがセンターへ抜けるライナーをダイビングキャッチしている。
その部分を何度も何度も見返してノートに絵まで描いた友樹は、次は六回の守備を繰り返し見ていた。
ショートがセンターに抜けようとした打球を、ワンバウンドで横っ飛びで捕球して、すぐさま起きあがり一塁に投げてアウトにしている。
「凄いなあ」
巻き戻して巻き戻して、何度もそのプレーを見ている。
横っ飛びの後、すぐ起きあがれる体幹の強さ、バランス感覚。
そして捕球から送球へとボールを持ちかえる速さ。
その二つのシーンばかり見ていると気がつき、他のプレーも見ることにした。
それ以外にショートに派手なプレーはなかった。だけど捕りかたと投げかたがいい。
友樹は彼の守備機会を全てメモすることにした。
ノートに打球と彼の立ち位置をそれぞれ書いてみて、恐ろしいことに気がついた。
ダイビングキャッチと横っ飛び以外、彼はごく普通に処理しているように見えたが、そう見えるだけだった。
一歩目が早く、打球の来る位置につくのが速かったために、普通の処理に見えていただけだったのだ。
反射神経だけだとしたらありえない。
『打球予測か。むしろダイビングキャッチと横っ飛びは予測の失敗だったのか』
ノートに緑のペンで書いた。気づけば字が大きくなっていた。
本当に凄いものに、気づかずに素通りするところだった。
この人は誰だろう。
この人がいる遠園シニアはどのようなチームなのだろう。
友樹は映像の中の彼にくぎ付けになった。
この人からショートを奪えるだろうかと考えてみると、恐れよりも憧れを感じた。
スマホのアラームが鳴る。
友樹は野球の動画を見ていると時間を忘れて熱中してしまうため、家事をする時間や寝る時間にあらかじめアラームをかけておくのだ。
名残惜しいが、友樹は動画を消した。寝て体を成長させることも選手として重要なことだ。
友樹は最後にもう一度浅見の名刺を見る。もったいないと言われたのを思いだす。にやにやして友樹は名刺を枕元に置いて寝た。
○
それから数日後。
「はじめまして」
家から車で一時間の場所にあるファミレスで、友樹と両親と浅見は待ち合わせていた。
浅見は鞄とバットのケースを持っている。
午後三時。店は空いており落ち着いて話ができる。
母は少し無理をした様子だが、本人は大丈夫としか言わないので友樹は何も言わないことにした。
「友樹から話を聞きました」
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