「足りないもの」— episode 3 —

 通路を挟んだ斜め向かいの座席。

 幼い少女と母親らしき女性。

 女の子は五、六才くらいだろうか。

 その少女が先程から、私の方をチラチラと見ていたのは知っていた。ふと目が合った。少女は座席からおり、トコトコとこちらにやってくる。目の前に来て、無言で左手を差しだしてきた。小さな手の平。飴玉が一つ乗っかっている。

「……私に?」

 そこには私一人しかいないのに、突然の出来事に変な質問をしていた。少女は黙って頷いた。

「ありがとう」

 そう言って受けとる。少女はにっこりと笑った。乳歯が抜けたばかりなのか。上の前歯が二本ともなかった。それがまたなんとも愛くるしい。

「ママとお家に帰るの?」

 訊ねると少女は自分を指差し、両手で耳を塞ぐような仕草をみせる。

「 ……… 。」

 —— もしかして…… 。

 その様子を先ほどから見守っていた母親らしき女性。立ち上がり、私に会釈した。

「ごめんなさい……この子、生まれつき耳が聴こえなくて」

 やはりそうだった。その声は申し訳なさそうで、寂しそうで、どこか疲れていた。

「私の方こそごめんなさい。気付かなくて……はじめまして」

 初めて使うので伝わるかどうか不安だった。少女にむかって、ゆっくりと手話で言った。

 すると少女の目が輝き、振り返った。女性は驚いた顔で、私を見つめていた。

        ・      ・

 なぜ私が手話ができるかというと—— 。

 夏休みに入る一月前。とある日曜の午後。

 勉強も手につかず、何をするにも全くやる気がない。誰もいないリビング。アイスをパクつきながらTVのチャンネルをまわす。最近、連続放送されている手話講座で手が止まった。

 —— 手話 …… 。

 手や身振りによる意思伝達の方法。おもに聴覚障害を持つ人たちが用いる。

 好きだったアイドルグループの一人が出演していた。一緒に手話をやっていたので思わず見入ってしまった。

 その翌日。何か感じるものがあったのか。学校からの帰宅途中、本屋へ寄っていた。棚から何冊か抜き取る。

 “ 初めての手話 ”

 “手話入門 ”

 —— とりあえず……これでいっか。

 はじめのうちは宿題と試験勉強の合間。気分転換のつもりでやっていた。

 しかしやり始めると、なにか魔導に通ずるものがある。次第にのめり込んでいった。

 たとえ耳が聴こえなくても、意思の疎通ができる —— 。

 突き詰めると、その本質は魔導と何も変わらないのではないのか。

 貪るように手話を覚えはじめた。するとこれまで力を制御しきれなかった…自分に足りなかったもの。それに気付いた。すべて言い出せばキリがないが。まあ、ざっくり言えば集中力が足りない。

 それに尽きる……。

 昔からそうだった。

 興味を持ったものにはとてつもない集中力を発揮する。しかし興味を失った途端、見向きもしなくなる。それは今も変わらない。

 早苗は私のことを“ 黒鉄くろがねの女 ” と呼ぶ…… 。

 ようするに、熱しやすく冷めやすいということらしい。

 自分でも驚くほどの驚異的な集中力と記憶力—— 。さらに生まれ持ったこの力も相まって。凄まじい速さで、手話を脳内にインストールしてしまっていた。

 それがまさか、こんなにすぐに役に立つとは思いもしなかった。これも魔導の引き寄せの力なのか。

 少女は目を輝かせたまま、私に手話で訊いてきた。

“ お姉ちゃん…手話…できるの? ”

“ うん…少し…だけね ”

 手話でそう答えた。少女は驚き、また後ろに振り返る。

「あの…もし大丈夫なら、こっちの席に来てもいいかしら?」

「ええ。もちろん」

 彼女の顔が急に安心した表情に変わり、荷物をとりに戻る。前の座席にあった鞄を上の棚へと移動させた。少女は小さな手で私に話かける。

“ お姉ちゃんのとなり…座っていい? ”

“ うん。いいよ ”

 少女はピョンと座席に飛び乗り、短い足をプランプランさせている。

—— なんて可愛いんだろう。

 こんなにも可愛いい妹がいたならば。あの鬼婆の棲む家も、きっと少しは居心地がよくなるにちがいない。

 少女から貰った飴玉を口に放り込んだ。

 甘酸っぱい檸檬の味。口いっぱいに広がっていく。それを見ていた少女が、嬉しそうに笑った。

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