「たった一つの記憶」— episode 1 —

 竹藪のなか、界外睦月かいげむつきは一人佇んでいた。

 目を閉じ、意識を集中させる。気を丹田たんでんに集めていく。

 風で笹が擦れ合う音。短く切った髪がそよぐ。

 —— ここへも、もう当分来ることもない……。

 ふと門限が近いことを思い出した。

 また早苗さなえから小言を言われるのが嫌で、慌てて気を鎮める。突然地面が揺れだす。次の瞬間、まるでスポンジのように足元から崩れていく—— 我に返った。身体の力が抜け、睦月はその場にへたりこんだ。溜息がでる。

「はあ…しんど」

 未だに自分の力を上手く使えない。

      ・      ・

 —— 早く帰らないと……。

 夢中で走って、とある広場にでた。

 どうやら迷ってしまったらしい。引っ越してきて間がなく、土地勘がまったくない。方向オンチというのもすこしある。

 錆びついて朽ち果てたベンチ。その下に幼稚園送迎バスの看板が折れ曲がり、無惨に捨てられている。日が暮れかかってきた。夕日が山の向こうに沈んでいく。鳥たちが鳴きながら飛び去っていった。彼等はいったい、どこへ帰っていくのだろう。

「あ、時間—— 」

 右手にはめた時計を見る。黒のGショック。

「やば…はやく帰んなきゃ」

 鳥たちを見送ると、睦月はまた走りだした。

     ・       ・

 やっとのおもいで自宅に辿り着いた。

 門限はとっくに過ぎている。もうどうでもいい。 

 音を立てないように、そっと靴を脱ぐ。そして黙って二階の自分の部屋へと向かう。その微かな足音でさえ、母の早苗は気付く。只者ではない。そして毎度の如く、父・英二えいじに当たり始める。耳を澄まさなくたって何を言ってるかは知ってる。モノマネができるほど知ってる。

 —— 私がいったい、なにをしたというのだ……。

 溜息がでた。もうウンザリだった。

 鞄にはすでに、必要なものはすべて詰め込んである。予定では明日朝早く出るつもりだった。

 財布と定期入れ。淡い水色のリーバイス501のポケットに入れる。お気に入りの靴を履く。薄いピンクがかったナイキのエアマックス。

 二階の窓からそっと抜け出す。

 その身のこなしは、伊賀者の末裔である父仕込みである。英二さんはまだ私が幼い頃からキャンプと称し、山に連れて行った。様々な格闘術やサバイバルの知識を叩き込まれた。

 軽々と一階まで屋根を伝って下りる。暗闇の中、足音一つたたせない。その動きは普通の女子高生とはとてもおもえない。

 駅のホームで電車を待った。

 当てもなく家を飛び出したわけではない。

 夏休みに入る二日前—— 。

「睦月、これを……」

 早苗がいないタイミングを見計らって、英二さんが一枚の紙切れを渡してきた。

「……なにこれ」

「夏休みに入ったら、会いに行ってくるといい」

 そこには簡単な地図と、住所が書かれていた。

 早苗も英二さんも、実の両親ではない。

 実の母である和美。早苗はその双子の姉。

 二人とも厳しく、そして優しかった。早苗とは現在、折り合いがわるい。

 その住所には、ある人が一人で暮らしているという。瀕死だった母を、死ぬ間際まで世話をしてくれていた人。英二さんがそう教えてくれた。

 なぜ今になって……。理由は訊かなかった。そっと受け取り、ただ黙って頷いた。

「いい機会だ……会ってくるといい。魔導の力のことに関しても、色々教わるといい。早苗さんには僕から上手く言っておくから」

 そう言ってくれた。

 いつも優しかった。まるで氷のような、冷たい目を持ちながら……。

 電車に乗り込んだ。

 辺りはすっかり、暗闇に包まれていた。

 この時刻、ほとんど乗客はいない。田舎の電車というのはこんなものだ。静かでいい。向かい合う座席に鞄を置き、窓側に座る。

 電車がゆっくりと動きだす。

 無数の家の灯り。無機質な車輌の音とともに、後方へと流れていく。

 目を閉じ、記憶を辿った—— 。

 産まれて間もない私を抱き、愛おしそうに見つめる母。それを傍らで優しく見詰める女の人。母は私の頬に優しく、そっと口づけた。

 たった一つの……母の記憶。

 トンネルに入った。そっと目を開ける。

 暗闇の窓に映る、自分の顔。

 “ 魔導 ”の血を引いた子……呪われた血。

 同じ魔導の一族だった父。母が身籠ったことを知ると、彼は姿を消したという。何故だかは知らない。母は、一人で私を産んだ。そして間もなく死んで、私は今の両親に引き取られた。

 母のことを知りたい。なぜ死んだのか。なぜ父がいなくなったのかも。この力のことにしても、あの二人は教えてはくれない。私も訊かない。

 母を世話してくれた人。この人なら、事の顛末を知っているかもしれない。だからこそ、英二さんは私にこの地図を渡した。

 自分で、確かめてこいと。きっとそうにちがいない。

 地図が書かれた紙切れを、丁寧に折りたたんだ。それを母の形見であるペンダントの中に、そっとしまった。

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