第四十九
びくり、と皓月は身じろいで、体の感覚を思い出した。水の中にたゆたうように覚束無い思考を、努めて奮い立たせ、重い体を引き摺るようにして顔を上げた。途端に襲いくる激しい頭痛に、頭が割れそうだ。気配を感じて緩慢な動作で目を動かすと、入り口に
「……何か用か?」
「有るから来た」
黎駽はズカズカと皓月の方に近づいてくると、敷布の上に胡座をかいて座った。
「女の居所に断りも無く入ってくるとは。褒められたものではないと思うが?」
「小虎。お前、自分が女だって自覚あったんだな。だが――ここは元より俺用の天幕。入るのを咎められる謂れは無いな」
「……そなたの?」
皓月は寝具から飛び退いた。動いた拍子に、頭が揺れたせいで痛みが弥増し、ぎゅっと眉をひそめた。
「露骨に嫌な顔してくれんじゃねえか。
言いながら、黎駽は己の面を外して傍らに置く。北部の人間らしく色は白い。深淵を覗き込むのに似た色の瞳が皓月を射貫いた。旣魄と闘っていたときは如何にも粗野な雰囲気だったが、真顔だと思いの外、品を感じさせる造作をしていることに気付く。
この男と皓月が顔を合わせたのは7年前だ。視察でとある集落を訪れた。良馬を産することで名の知れたそこで、皓月は一番の乗り手と勝負をして見事勝ちをおさめ、50頭の名馬を贈られた。勝負のきっかけになった宴で、客人として来ていたのがこの黎駽だった。
次に顔を合わせたのは2年後。戦場でだ。皓月は不意を突いて己の剣でこの男の刃を打ち返した。以来、この男は皓月のことを「小虎」と呼んで何かと絡んできた。
「――玄冥山を渡せ。そうしたら、臾屢師に頼んでその呪詛を解いてやる」
「断る」
どうせ碌な話ではなかろう、と踏んでいたが、矢張り碌でもない話だった。
「そなたの言葉以上に、あの巫師は信用ならぬ。颱の地をそなたらにくれてやる気も無い」
まあ、と傲然とした笑みを浮かべ、挑むようにその漆黒の瞳を見返す。
「そなたらが颱に下るというのなら、話は別だが」
「はっ。随分強く出たな。――お前、」
笑みを浮かべていた黎駽は、ふと表情を改めると、距離を詰めてきた。深い夜闇を思わせる瞳に、何か危険な色が浮かぶ。本能的に後退った皓月の手に、何かが当たって、はっとする。
「――自分の状況が分かっているのか?」
動きを止めた皓月の顎を持ち上げた黎駽の、どことなく艶めいた声が耳元に響いて、肌が粟立った。
「――離せ!」
皓月は身を捩り、先程手にぶつかったそれを、黎駽の脳天目がけて振り下ろした。
「うっ……!!」
鈍い音が響いた。
予想外の反撃を受けた黎駽の頭に、まともにぶつかったそれは、みしりと音を立てて若干めり込んだようにも見えたが、流石に気のせいだろう。
一方、頭を押さえて痛みに堪えていた黎駽だったが、やがて、じとりとした目で皓月を睨んだ。
「お前、何を隠し持って……」
皓月が両手に持っているものを認めた黎駽は、片眉を上げた。
「………………笛?」
そう。たった今、皓月が黎駽の頭をぶん殴ったのは、旣魄から預かった笛子である。
剣は奪われてしまったが、これは枕頭に置かれたままだったのだ。咄嗟の勢いで、思った以上に思い切り振り下ろしてしまったため、笛子に傷が付いていないかをそっと確かめる。
「いや、それ……ただの竹笛の衝撃なんてものじゃ……あー、いや、いい」
すっかり興が削がれた様子で髪をかき上げる。すでに、一瞬浮かんでいた妖しげな光は鳴りを潜めている。どうせ、元より冗談半分だったのだろう。
「……お前と一緒にいたあの男が、見つけてこられると思うのか? 迷宮みたいな洞窟の中、何かもよくわからんものを探して。逃げたかも知れないだろう」
「――旣魄は逃げたりしない。約束を反故にしない」
もしそのつもりなら、皓月にこの笛子を預けはしない。期待させるようなことも言わない。
期待したら期待するだけ、そうでなかったときに辛いだろう。
体の良いことを言ってその場をしのぎ、期待だけ持たせて去る。去る側は、その方が気は楽だろう。相手の怒りや哀しみ、失望に直面しなくてすむのだから。しかし、仄かにでも
「やけに自信満々だな」
「勿論」
「――まあ、良い。お前の考えがそれなら話はここまでだ。それと、分かってると思うが、くれぐれもここから出るなよ。気の荒いのしか居ないからな」
立ち上がると、置いていた仮面をまた持ち上げ手早く着け直すと、そのまままた、ズカズカと出て行った。
――面を着ける直前。その目に、ほんのわずかよぎった、憂慮のようなもの。
「……?」
完全に気配が遠のくと、どっと疲れと苦痛が押し寄せて、荒く呼吸をした。無意識に握り混んでいた笛子を枕頭に置かれた布の上に戻す。
何か、不意にこみ上げて、口の中に血の味が溢れた。呪詛と、毒気の影響と思われた。寝具に横になり直して、皓月はぼうと天井を見上げた。
目ざめる前、夢を見ていた。はっきりと覚えている。一面の銀世界の中、冬の甘く冷たげな香りに混じって漂う梅花の薫香。その香りが、今も鼻腔の奥に残っているような気がした。
目を閉じれば、すぐにまた、意識は水底に沈んでいくように落ちていく。
*
――ゴボリ。
ねっとりと絡みつくような汚濁の中。一群の泡が吐き出され、上へ上へと浮上し、弾けて消える。
けれども、己が身は、上から何かに押し潰されているかのようで、身動きすらもままならない。苦しみにあえぐ喉は声というものを忘れて久しい。ただ枯れてカサついた悲痛な唸りが時折鼓膜を震わせるばかり。
――夢を、見ていたのだろうか。
あまりにも遠く、遙かな。
僅かな動きに合わせて、黒々とした影が地面を引っ掻く。
決して、許されざることだと、知っていた。
止めねばならぬと、知っていた。
唯一の、あのひとを。
“――それでも、”
ゴボリ。
また一つ、濁った泡が吐き出されて、弾けた。
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【ご連絡】
お読みいただき、ありがとうございます。
『嘯月筆記』を公開しました。内容は下記の通りです。
宜しければご覧頂ければと存じます!
―○。.○。.○。.○。.○。.○。
▼創作ノート、読んだ本の所感及び雑記
連載中の長編小説『昊国秘史』シリーズを中心に、各話の末尾に載っけていた、作品を書くに当たって調べたことや元ネタ、参考にした資料や余談などを集めた創作ノートがメイン(おそらく)。
その他、箚記(読書ノート)兼雑記。
(https://kakuyomu.jp/works/16818093088227563646)
○。.○。.○。.○。.○。.○―――――――
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