第五十

 夜陰に、笛の音がやさしく響いていた。

 跳梁する妖魔に備えるべく、夜警の任に着いていた白羅は、月の出とともに響き始めたその音に心を澄ませた。


 あれは、北王の奏でる音だ。

 聴力に優れる玄武とその守護者は、楽を好むという。おそらく、今日も、己の玄武のために奏でてあげているのだろう。

 その音を、大雅や巍脩らとともに聴いた日も、いつかあった。


 しかしそれも、今となっては遠く、遙か彼方だ。


 あの日――南城に大雅が帰ってから、すでに4年の春秋ときが過ぎた。以来、白羅は大雅に一度も会っていない。何度となく、尺牘てがみを送ったのだが、一度も返事はなかった。


 付いていくと言った白羅を拒んだ大雅の、夕闇の中で揺れていた朱色の瞳。――あのとき、大雅は、こうなることを予感していたのだろうか。或いは、決意していたのだろうか。


 国の四方の守りの一角を担う南王府。そこを本拠とする南家一族が何者かの手で謎の死を遂げたという事態に、国中が震撼した。遺体はいずれも損傷が激しく、まるで巨大な獣の群に襲われたようであったという。ただ、一体どこからそれらの獣がやってきて、また去ったのか、それはよくわかっていないようであった。

 大雅は今上から南城から出てはならぬ、と命じられた。それ故、南王を継いだあとも、大雅は一度として皇都に来ていない。


 南城は呪われた。神の祟りを受けた。

 そんな話が、どこからともなく聞こえてくるようになった。

 ただ、全く荒唐無稽の話ともいえない所以があった。


 南王府に異変の起こる数日前。南城に近い都廣山のふもとで、南王は一族の者を招いて宴を催していたらしい。世子でありながら、その場に大雅がいなかったというのは、父子の溝の深さの窺われるものだが、そこで事件が起こった。


 仔細は不明だが、南王が都廣山に火をつけたらしい。

 当然、己の朱雀の守護の力を使って、である。

 木々や草花は忽ち燃え上がり、燃え広がり。かつて帝王が、天と地とを往来したという神樹――建木までもが焼けてしまった、という。

 

 実際、都廣山でひどい山火事のあったことは、灰と化した木々や草花の残骸を見るに明らかで、それが南王の仕業であったのならば、とがめは免れまい。が、それをした本人はすでに亡く、その跡目を継いだ大雅が南王としての責務ごと咎めを被らざるを得ないというのは納得がいかなかった。

 

 己の罪ではない罪に服し、頼りになる身内までも一度に失った大雅は今何を思い、どうしているのか――白羅はずっと気がかりだった。


 しかし、都の守りから南家が外れ、その負担は他の三家が負った。白羅は自由に身動きの取りがたい状況にあった。

 また、妹の白雨が入宮してすでに7年。皇后である白雨のみならず、他の妃嬪との間にも、今上にはいまだ御子がなかった。後宮を管理している白雨の責任をささやく声は日々強まるばかりである。ここへさらに、白羅が何か失態を演じればまた、白雨の瑕疵に帰着せられる。自分が白雨の足手まといになってはならないと思えば、自然、白羅も慎重にならざるを得ないのであった。


 神の祟りを受けた南王家、という風聞により、人々は南家に背を向けた。

 その上、不思議な事に、温暖で実りも豊かな南部では、ここ数年、原因不明の凶作が続いた。それもまた「神の祟り」では、と人々の疑いを深めた。


 せめて、人望の篤い寧心だけでも大雅の側に残れば。そう思ったものだが。

 あの一件以来、寧心の行方は杳として知れない。前南王から疎んじられていた彼も、例の火事のあった宴には参加していなかったらしく、南王府を襲った悲劇の場にもその姿はなかったという。


 彼と相愛だった九尾狐の墨紫は、焼けてしまったという建木の神たる建夫人の眷属であったというのだが、その行方もまた知れない。調べてみれば、例の事件が起こるまでは、墨紫は、寧心とともに度々妖魔退治を行っており、当地の人々からも知られた存在であったようだった。――その正体までもを知る者はいなかったようではあるが。


 彼らは、一体どこへ行ってしまったのか。




「羅姐」


 物思いにふけっていた白羅は控えめな声にはたと我に返った。白い百日紅の甘く華やかな香り。

 見れば、扉を開けて素光が顔を覗かせていた。白羅は、手にしたまますっかり乾いてしまった筆を筆牀に戻し、微笑みを浮かべて立ち上がり、招き入れた。


「素素。こんな時間に、こんな所までどうしたの?」

「頼まれもののお薬を届けして来たの」

「――たった一人で?」


 すっかり日の落ちてしまった外を見やり、それから心なしか得意顔で頷く素光とを見て、白羅はそっと息を吐いた。


「……汕娥殿に言っておかなくては」

 

 記憶をなくした素光を西家で迎えて既に8年近く。裏表のない素光は、白雨が入宮して以来、気兼ねなく話せる数少ない存在――


 昊の言葉を覚えた素光は薬学に興味を持った。そこで2年前から、彼女の事情を知る巍脩の姉・汕娥のいる薬院で手伝いをしながら薬学を学んでいる。腕の良い薬師だという薬院の主は皇宮から依頼を受けることも多い。今日の頼まれごとというのも、それに関連してだろう。控えめながらも覚えがよく、勉強熱心な素光は薬院の主からも気に入られているらしい。この仕事を頼まれたのも、信頼されてのことだろう。


「私は今夜は泊まりだし、誰かに送らせるよ。ちょっと待ってて」

「大丈夫よ。娥姐が、脩哥に声を掛けてくださってるって。――術を掛け直していただかないといけないし」


 立ち上がり掛けた白羅だったが、出てきた名とともに浮かんだ苦い思いを悟られぬよう、平静な表情を取り繕った。


「巍脩に。――ああ、もうそんなに経っていた?」


 白羅の目には今、素光は黒髪に西方人に多い碧眼に見えている。本来、素光は目も、髪も、爪も、全て銀の色彩である。この様に見えているのは、巍脩が操る青龍の能力で術を掛けてもらっているためだ。


 希少な色彩を持つその瞳や爪が万病を癒やし、不老不死さえも叶える妙薬たる。そんな噂のため、どこかに身を隠しているらしい魄の出身と目される彼女が人前に出るための措置だ。

 とはいえ、桃花をおもわせる愛らしい顔立ちはそれだけでは隠れるものではない。認識を阻害するような術も施しているらしいということに、白羅は気付いていた。それは、弟に術を施すように命じた姉・汕娥の意図か。それとも、……巍脩の意図か。


 だが、に見つからないためには、それも必要なことだろう。本当は、皇宮に来るべきではないのだ。


「普通よりもすぐに効果が切れてしまうみたいなの。だから三日に一度はかけ直しに来るようにって脩哥が」

「――そう」


 どことなく華やいだ声音の素光の顔を、白羅は真っ直ぐに見返せなかった。

 不自然さを悟られぬよう、白羅は立ち上がり、彼女のためにお茶を煎れるべく道具を準備しはじめた。


「羅姐。お茶なら私が。顔色が悪いわ。疲れてるのではないの?」

「……大丈夫よ。ありがとう」

「羅姐は何でも一人で抱え込むから。心配なの」

 

 真摯な言葉に、白羅の頬のこわばりが微か和らぐ。その真摯さが、優しさが却って辛いのだ、と。言葉にしてしまえればいいのに。が、彼女にこそ、己の内にわだかまる感情ものを悟られる訳にはいかなかった。


「……巍脩が送ってくれるなら問題はないわね。ここに来るの? それとも、どこかで待ち合わせ?」

「ええ。羅姐のところで待ってるようにって」

「……そう」


 確か巍脩は今日、白羅と入れ替わりで帰る筈だ。となれば程なく来るのかもしれない。彼の分も茶を用意しておくべきか否か。ほんの少し迷って3つ分の茶杯を用意した。


 扉の向こうから、慣れた気配が近づいてくるのを察して、白羅は一瞬だけ手を止めた。が、すぐ何事もなかったかのように茶海の中の茶を杯の中に注ぎ切ったところで巍脩がやってきた。


「一人でこんな時間に遣いをさせるなど……」 


 きっちりと髪を結い上げ、東王家の世子としての身分を示す藍色の長衣を隙無く着こなした巍脩は、開口一番、そういった。柳眉を寄せた様子は相変わらず無愛想だが、冴えた刃を思わす鋭く秀麗な顔立ちには、そんな表情も男子らしい色香を漂わせると、女人達の間ではもっぱらの評判……らしい。白羅は部下達から聞いただけだが。


 南王家が件の風聞で人々に避けられるようになって以来、巍脩は並み居る名家の中でも最も高貴な独身男子であり、名門女子の嫁ぎ前としては最良の相手と目されていた。彼の元へは毎日の様に婚約の申し入れがひっきりなしに届いていた。皇宮でも「是非当家の娘を」と彼を追いかける者達を頻繁に見かける程である。それでも未だ婚約者すらいないのは、ひとえに巍脩がそれらを全て突っぱねているからだ。


 突っぱねられる巍脩を、うらやましいと思う。

 補佐と称し、長老達が送り込んできた父方の親戚の青年を、彼らの意図を理解しながら側に置いている白羅には。


 時に、憎らしささえ覚える程。


「別に私が遣いをさせた訳ではないけれど」


 言えば、巍脩の藍の瞳は冷ややかに細められた。勿論、巍脩もわかってのことだろう。何も言わずに白羅から視線を逸らした。


「脩哥!! お疲れ様」


 花の様にんだ素光が、飲んでいた茶杯を卓子の上に置いて立ち上がる。


「素素」


 少し化粧をした位で白羅を白羅だとわからなくなる程の朴念仁。その巍脩の表情が、素光を目にした途端、険が消え失せた。

 

 その名を呼ぶ声も。その目も。表情も。纏う気配も、全て……。


 目の当たりにした途端、居ても立っても居られない程に湧き上がるこの感情を、どうすればよいのか。


 意味も無く叫び出したくなるような。逃げ出したいような。

 だがそれは、行き着くべき場所がもとより存在しない感情ものであった。


「――折角来たのなら、お茶でも飲んでいったら? 煎れたばかりだし」


 白羅が言うと、巍脩はまた、険を目に浮かべて、一言。


「いらん」


 素っ気ないのは巍脩の常だ。昔はさして気にもしなかった。が、今の白羅には刃で刺し貫かれたような痛みをもたらした。


 巍脩は、白羅を心配する素光を、「もう遅いから、できるだけ早く帰ろう」と促し、連れだって白羅の執務の房室から出て行った。


 手も付けられずに残った茶器の一つを手に取り、白羅は一息に飲み干した。

 みずみずしい茶の香り。

 本来なら心を落ち着けてくれる筈のその清香も、沈んだ白羅の心の澱を晴らすに足りない。


 突き刺すような巍脩の拒絶の一言が、耳の奥にこだましていた。


 この4年。巍脩は白羅にずっと怒り続けている。

 人々から背を向けられた南王家を。大雅を――世間の人々と同じように、見捨てた、と。

 そう、巍脩は思っているのだろう。素光の手前、あれでも抑えているにすぎない。

 実際、心でいくら憂えていても、白羅はただそれだけだ。やりようならあった筈なのに、白雨への攻撃となることを恐れて何もしなかった。

 だが、南城の惨状を知って、義に篤い巍脩が手を拱いてなどいる訳がない。


 だから今、白羅が一人感じているこの痛みは、己の自業自得。

 自業自得なのだ。


 なれど、白羅はこの道を選ぶしかない。

 一族のため。後宮で闘う皇后のため。

 迷ってなど、居られない。

 

 けれども。


 ――何もかもが掌をすり抜けていくような音を、白羅は耳朶に感じ取っていた。


  *


 西家に素光宛てにその髪によく映える翡翠の美しい釵が届けられ、贈り主である東家――すなわち、素光と巍脩の間で婚約が結ばれたのは、それから程なく。桃の花が燃えるように咲き誇る、春のことだった。


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