第四十五
『我が守護者に近づくな』
警戒の濃厚に滲んだ声で、巍脩の青龍が言う。たちどころに周囲が曇り始め、寧心は墨紫を青龍の目から遮るように前に立った。その、躊躇いのない仕草。物言いたげに見上げる墨紫の情を含んだ目を、僅かに寧心が見返した。
ほんの一瞬の、視線の交錯。けれどもその寧心と墨紫が、ただの知り合い以上の、親密な関係にあることを白羅達に感じさせるに十分であった。
『朱雀! なぜこんなものを己の守護者に近づける』
「“こんなもの”ではない。――彼女は私の唯一だ」
怒れる青龍を前に、臆した様子もなく言い放った寧心に、青龍の目が更に厳しく細められた。
『……我が守護している以上、彼女は寧心に危害など加えられない。そなたは神経質過ぎるのだ』
飛来した朱雀が地面に降り立って応じる。あっけらかんとした返事に、ますます青龍はいきり立った。
『神経質? そなたが考えなしなだけでは?』
びりびりとした気迫を肌に感じながら、白羅は己の白虎に視線をやる。巍脩も、白虎に目を向けた。珍しく戸惑ったような目だ。どう反応したらよいか分からないのは、巍脩も同じらしい。とはいえ、青龍が警戒している以上は、よくない
「なぜ巍脩の青龍殿はあんなに怒っているの?」
白虎が口を開こうとした時、雷が迸った。それは、まっすぐに墨紫を目がけて落ちていく。寧心が庇おうとするのを制し、墨紫は軽やかに飛び上がった。
肌が粟立つ。露わになった凄まじい霊力に押し潰されるような気さえもした。
眩い光を発しながら、墨紫の輪郭が崩れ、大きく膨れあがる。
その圧倒的な気が、巍脩の青龍の放った雷を弾いて、白羅と巍脩は息を呑んだ。
段々に収まっていく光に目をこらすと、それは段々と巨大な獣の姿を象る。
霊気に立ち上る風を受けて、微風がその白の体毛を柔らかにそよがせた。
姿は、狐によく似ていた。
夜闇に爛と光る赤い双眼と、それ自体が独立した生き物の様に、九つに分かれた尾がゆらりと揺らめいて、ただの狐ではないことを明瞭に告げていた。
「……九尾狐……!」
さっ、と巍脩の顔に敵意が宿る。その瞬間、巍脩は己のとるべき態度を決したらしかった。
九尾狐。青丘に住まうという、人を喰らう妖。或いは美女に化けて男を誑かし、その精気を吸って霊力を付けていくとも。いずれ、人を害する妖として知られている。故に、青龍や巍脩が警戒するのも不思議は無い。
雷を避けた墨紫はまた、敵意の無さを示すかのように、人の姿に戻った。先程まで魔性を帯びて赤く仄光っていた両目も、もとの澄んだ雪藍色に戻る。が、その表情は先程とは打って変わって沈痛さが滲み、恰も豪雨に打たれた花のようだった。
「墨紫が人を襲うことはない」
かたく信じ切った表情で、寧心は言い放つ。
『……その言葉をどう信ぜよと? 斯くも霊力を溜め込むためには、それだけ人から精気を吸い取らねばならぬ筈』
「彼女は
『――建夫人?』
都廣山にあり、天地を支えるという大樹を、建木という。
『……何故かくも霊格の高い神が一介の妖狐を? そなたも、そなたの守護者も、その狐に化かされていないと、どう証明できる?』
『――それは、我が守護者と我に対する侮辱か?』
飄々とした朱雀の声音が変わった。
一触即発の雰囲気に、白羅はそれぞれの様子を窺った。
どちらの言に理があるか、白羅には未だ判断がつかない。
先程彼女が見せた清廉な笑みや、危機を救われたことなどを思えば、単に九尾狐だというだけで敵意を抱くのにも抵抗がある。しかし、そう思ってしまうのも、青龍が憂慮するところの「化かされている」ということなのかもしれず、その可能性がある以上、簡単に判断を下すのは危険だった。
『――事は、南王の知る所か』
朱雀と青龍の睨み合う間に、白虎の落ち着いた問いが落ちる。
「いいえ。あの男には、とても……」
自分よりも人望のある妾腹の弟を嫉んで毎回妖魔退治に追いやり、婚姻を結ぶ事も許さないという南王が、力のある妖である九尾狐と異母弟が結ばれることを歓迎するとは、白羅から見ても、とても思われなかった。そういう点からのみ言えば、寧ろ、ただの妖狐であった方が、南王にとっては都合がよかったかもしれない。
そんなことを考えながら、白羅の脳裏には、先だっての、武儒の言葉が蘇っていた。
“――男女の仲というのは、難しいものです。単純な利得ならば、ある程度予想は付く。制御も出来る。だが、情愛ばかりは……。思っているだけでは、どうにもならないことがある。例え思いが通じ合っても、必ずしも思う相手と一緒には居られないこともある。それでも、どうにかならないものかと、もがきたくなってしまう――”
人と妖では、正邪善悪の区別も、生き方も、寿命も、全てにおいて異なる。その違いを越えることは、白羅から見ても、決して容易な事ではないと、察せられた。況してや、白羅よりもずっと人生経験の豊富で賢い寧心がそれを考慮にしていないとも思われなかった。
青龍たちに向き合う寧心の目には、しっかりとした強さが宿っていて、単純に妖狐に魅了されて、道理も何もかもを見失っているようにも見えない。
いずれにせよ、この場でことの是非を判じることは、白羅には出来ないと思った。さりとて、そう口にすれば、また青龍なり、巍脩なりが反応するだろう。
「――巍脩。あまり遅くなると母上達が心配する」
「……そうだな。寧心様。帰りは我らだけで戻れます故、」
「なれど……」
寧心は、今回の一件の見届け役である。二人を無事に四極院まで送り届ける責務があった。
「貴方の傍には、またあの狐がいるのでしょう。そちらの方が却って安心できません」
「……わかったよ」
それからは、手早くその場の確認を行い、被害状況を調べて記録し、帰還した。報告を終えて邸へ帰ろうという所で、白羅はどっと疲れを感じた。
「白羅。おい、大丈夫か? ……情けない」
「ああ、うん、……御免」
疲れの余り、完全に一言余計な巍脩の言葉にも反論する気力も無い。
舌がもつれて、語尾も大分怪しい。
「……白羅?」
どことなく焦ったような巍脩の声が遠くに聞こえたような気がしたが、半ば気を失うように白羅の意識は闇に沈んでいった。
――――――――――――
お読みいただきまして、ありがとうございます。
胡墨紫の正体が明らかになりました。
九尾狐、中華ものなら出してみたいよねって、出してみました。
因みに、白蛇精にするか、九尾狐にするか、かなりギリギリまで悩みました。
どちらがお好みでしょうか……?
私は割と、白蛇精も好きなのですが。
■〈巻一〉番外編、公開始めました。
「傳第二 或る宮人の東宮府出仕録」第一
(https://kakuyomu.jp/works/16817330669250683815/episodes/16818093086717740741)
浩の東宮で皓月の側仕えをすることになる沾華ちゃん視点のお話。
現在、第一から第二まで公開しています。
珍しく一人称で書いてみました。
皓月が来る少し前から、お話は始まっています。
また別の角度から巻一を楽しめるような内容になっていようかと思いますので、お読みいただければ幸いです。
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