第四十四
「貴女は……?」
突如現れた、見知らぬその女人に、白羅が戸惑いがちに尋ねる。その声を聞きつけたのだろう。その人は白羅を振り返った。吸い込まれそうな切れ長の瞳。一瞬、それが底光りをしたように思われた。が、光の反射だったのだろう。鏡のように澄んだ雪藍色の瞳を細めて、柔らかに微笑む。
その頬は桃花の如く、唇は梅花の如き紅。人間離れした艶麗な美貌に、こんな時だというのに、白羅は思わず息を呑んだ。
女人は、一度口を開きかけたが、すぐにはっと視線を動かして袖を払った。
狍鴞が迫っていたのである。女人の袖が触れるや否や、雷の迸るような鋭い音を立てて、狍鴞の巨体が弾き飛ばされる。
が、狍鴞もまた、すぐ体勢を立て直して女人に再度飛びかかる。先程を上回る速さだ。女人は高く飛び上がり、身軽な動作で近くの木の上に飛び乗った。
「何者だ……?」
正体不明ながら、異形の獣を前に怯んだ様子もなく狍鴞と向き合う女人に、巍脩も戸惑いの声を上げる。状況から、助けに入ってくれたようではあったが。
術を扱っているというからは、道姑かとも思われる。
だが、それにしては、纏っている“気”が、何か違う。顔を見合わせた巍脩と白羅の横で、女人を見つめていた巍脩の青龍が、何か思わしげに『……あれは、』と零した。
「何か気になることが?」
巍脩の問いかけに青龍が答えるべく口を開く。直後、傍でまた光が爆ぜた。謎の女人が放った術から発せられたものだ。それが、真っ直ぐに狍鴞へと向かう。が、その光が己の体毛を灼くのも意に介した風もなく、狍鴞は女人にぶつかっていった。
女人が小さく目を見張り、鋭く身を返した。
繊細な刺繍を施した薄紅色の
「……」
狍鴞がぐぐっと踏み込む。が、厳しい表情を向けた女人もまた、退かない。
無言の攻防が、しばし続いた。
ふと、何かを察した女人が、披帛から手を離して後方へまた、高く飛んだ。飛仙かと思う身のこなしだ。
直後、狍鴞の立つ地面が、光った。
身を隠しながら陣を敷いていた寧心の術が完成したのである。
それを悟った狍鴞が声高く吼えた。
が、時すでに遅し、である。
上空から飛来した朱雀が、炎を吐く。それ瞬く間に狍鴞を包み込み、激しく燃え上がった。
もがく狍鴞が、軛から逃れようとするが、見えない壁にぶつかったように音を立てて弾き返される。が、狍鴞も諦めない。必死に地面を掻き、見えない壁に体当たりをしてもがくが、全て無益であった。
恐ろしい悲鳴が上がる。
全身を押し潰すような声に襲われて、肌が粟立つ。
が、それも長くは続かない。
炎は益々激しさを増し、四肢を焼き、血走った目を焼き、胴を、頭を撫ぜて燃やし尽くしていく。見る間にその身はぼろりと崩れ、灰となって消えた。骨すらも残さない。
白羅は深く息を吐いた。
「――二人とも、大丈夫か?」
「……はい。何とか」
寧心である。厳しい顔で駆け寄ってくると、白羅と、巍脩の様子を窺った。二人とも、地面を転がったりなんだりと土だらけの満身創痍な姿である。寧心がそれを見ると、ますます表情を厳しくした。
「時間がかかってすまなかった、二人とも」
責任を感じたのだろう。眉を寄せてそう言い、黙り込む。
「――幽鬼の群に追われながら術を組んだのですもの。時間がかかって当然だわ」
凜とした声が、割って入る。
声の主は、先程の女人である。「小紫」と、寧心が困ったような声を上げる。どうやらこの女人は寧心の知り合いらしかった。
「幽鬼の群?」
だが、白羅はそれよりも女人の言葉が気になった。
「狍鴞は、己が喰った人間を鬼として隷属させることができるのです。狍鴞自体は、己の餓えを満たすのに貪欲なのと、並外れた身体能力はありますが、知能は然程高くはありません。しかし、従える鬼達は、人としての仁義を解する心はなくとも、人として生きていた頃の知識はあります。それによって、狍鴞の狩りの手伝いをするのです」
「それならなぜ、私たちの方には」
幽鬼が追って来なかったのだろうか?
「小紫、これ以上は――」
遮ろうとする寧心に鋭い目を向けて、女人はあきれたように声を上げる。
「誘霊香を使ったでしょう。幽鬼達が自分の方を追うように」
「……そもそも、なぜここに?」
「勿論。あなたが心配だったからよ。今回の討伐、命じたのは南王なのでしょう? あの方がまた何か画策しているかもしれないと思って」
「
訊く質問を間違えた、とばかりに語気を強めた寧心に、女人が口を噤む。
親しげに「小紫」と呼んでいるのもそうだが、女人の方も言葉の端々から寧心への親密さが窺える。
「……こちらの方は?」
「私は
おずおずとした白羅の問いに女人が名乗り、微笑んだ。艶やかなその笑みは、名の通り“
微笑む墨紫と、白羅と巍脩の間に、滑り込むようにして巍脩の青龍が立ち塞がった。
『――我が守護者に近づくな』
冷たく言い放った青龍に、寧心と墨紫は表情を凍らせた。
―――――――――――――――
【補足】
■無事狍鴞を斥けた一行!
それを手助けした新キャラ、墨紫。
艶やかな雰囲気の美人です。
彼女が何者か、巍脩の青龍が悟っているようです。
その正体は、次回にまわします。
【御礼&ご連絡】
近況ノートでもお知らせしましたが、『昊国秘史〈巻一〉~元皇太女、敵国皇太子に嫁入りす~』が10000PVを超えました!
ありがとうございます。
記念と御礼で短篇を書きました。
少し長くなりそうなので、話を分けることにしました。
こちらもお読みいただければ幸いです。
「傳第二 或る宮人の東宮府出仕録」第一
(https://kakuyomu.jp/works/16817330669250683815/episodes/16818093086717740741)
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