第四十三

 枝の上に留まっていた獣が、悠然とした動きで地面に降り立つ。口の端を引き上げ、なおも血の滴る牙をちらつかせながらも、こちらを警戒する様子は無い。


――其のじょう、羊身人面、其の目 腋下に在り、虎齒人爪こしじんそう、其のなきごえは嬰児のごとし。名は狍鴞ほうきょうと曰ふ。是れ人を食らふ。


 その飽くなき貪婪どんよくさは、一度ひとたび現れれば動くもの、目に付くもの全てを喰らい尽くし、しまいには己が身さえも喰らう、という。


 書物や画などで見聞きしたことしかない、伝説級の妖魔だ。

 

 妖魔霊怪の類や魔道に落ちた元神仙は、邪気に満ちた鬼界に通常住まうとされる。また、冥府の勾魂使者しにがみ・走無常の目を逃れた亡鬼などが彷徨うこともあると言う。


 神やその眷属たちは霊界に。仙は瑶界ようかいに。人は人界に。これら四界は、複雑に重なり合いながらこの世界を形作っている。ただし、第五の界である、死者の住まう冥界だけは厳格な幽明の別がある。その境を、生きたまま行き来できるのは、冥府の神に特別の許可を得た者と、玄武の守護を持つ者のみである。


 冥界を除いて、界を隔てた住人同士が関わり合うのは、普通は何らかの境界的な場に限られる。


 例えば、内外を隔てる門。例えば様々な物や人が行き交う市。彼我を繋ぐ橋。或いは山や水辺なども含まれる。方法さえ得ておけば、それら境界的な場から、異なる界へと往来することは可能である。また、人がそれと知らずに偶然迷い込んでしまう話などは、古来より無数に存在する。本来霊界の住人である四神獣達が人界に現れて守護を与えることができるのも、それ故だ。


 狍鴞などの妖魔の類は、基本的には邪気を糧に生きている。


 鬼界は、最も人界と近接しており、複雑な感情を抱える人間の“気”は妖魔の好む所でもある。故にしばしば人界に現れては人を襲う。世が荒れ、人心が荒むと、その“気”に惹かれ、妖魔が益々増えるという。とはいえ、一定数の妖魔が現れるのは自然なことなので、殊更に気にする事ではない。――が。狍鴞のようなが現れたとなると……。


 寧心の話では、付近には相当な数の妖魔がいるようだと言っていた。確かに、彼に言われて確認した、普通の獣とは異なる足跡の数や、周囲に漂う気の質なども、この近辺に、それに見合うだけの数の妖魔がいることを示唆していた。


 が、実際目の前にいるのは、人一人を平らげてもなお尽きせぬ飢えに眼を血走らせた異形の獣、狍鴞ほうきょうがただの一頭ばかり。


「他の妖魔達は……」

「あの足跡の数なら、間違いなく妖魔の群は。だが、今、ここに居ないというのなら、答えはほぼ一つだよ」


 独り言のような白羅呟きを聞きつけた寧心が、かたい声で応じる。


 苦みに溢れた声音に、まさかと思う。

 が、四神獣の守護を持つ者が三人も揃っていながらも、新たな獲物が自らやってきたと認識しているらしき狍鴞の自若とした態度に、その疑いは強まる。


 実物を目にしたことの有る者は滅多にいない。が、その恐ろしい姿はよく知られている。何となれば、その姿は、専ら青銅器の類に鋳込まれ、魔除けとされているからだ。人や獣のみならず、妖魔すら喰らい、最後は己をも喰らう。その、ほどの悪食悪性を以てして、悪をふせぐのだ。


 狍鴞は、人はもとより、妖魔を喰らう妖魔。

 つまり。

 報告された妖魔たちが見当たらないのは。


「……全部、……」

「恐らくは」


 ことごとく目の前の狍鴞が喰った――? 

 

 至った結論に、白羅は背筋を寒くしたが、すでに狍鴞の視界に入った以上、逃げても無駄だ。もしここで逃げようと追いかけてきて、その道々、目に付いた人や獣を食い尽くしていくことだろう。白羅達に、逃げるという選択肢はない。そして、倒さねば喰われる。ならば、困難でもやり遂げるよりない。


「狍鴞の相手を、二人だけに任せる訳にはいかない。まずは何とかしてあれの足止めをしなくてはならない。私が陣を敷く」


 術を使い、陣を敷くのにはそれなりに時間がかかり、且つその間、術者は無防備になってしまう。寧心の場合は、朱雀が守るだろうが、術式を組んでいることを悟られれば逃げられる可能性もある。故に、白羅と巍脩で狍鴞の目を寧心から逸らせておく必要があった。


「はい!」


 巍脩の青龍が狍鴞に飛びかかった。四肢で押さえつけ、首筋に鋭く噛みつく。血が飛んだ。

 立て続けに鋭く尖った尾が狍鴞を打ち据えるように鞭のように撓ったが、それはするりとかわされた。間髪入れずに巍脩が斬りかかり、同時に白羅も反対側から斬りつける。大抵の生き物同様、妖魔の弱点の一つは目である。狍鴞の場合、なかなかの大きさはあるが、腋の下に付いているために狙いにくい。二人が距離を取ったところに、今度は白虎が飛びかかる。ともに修練を積んでいる仲。普段は喧嘩ばかりとはいえ、こう言う場面での息はぴったりである。


 しかし、狍鴞は不気味に沈黙したまま、多少躱すことはあれど、殆ど動く様子を見せない。一向に攻撃に転じる様子の無い狍鴞に、一度距離をとる。


 見れば、狍鴞の腕や胴体から流れる血が、見る間に止まり、瞬く間に塞がっていく。数瞬の後には、傷は跡形もない。恐ろしい回復力である。あれでは、白虎の風は余り効果がないだろう。

 

 巍脩が眉を寄せる。

 大体白羅と同じ事を考えたのだろう。


 恐らく、狍鴞を倒す一番確実な方法は、恢復も間に合わぬ程、徹底的に燃やし尽くすことだ。朱雀は、炎を操る事が出来る。足止めの陣を用意するのは、狍鴞を燃やし尽くすのに、万一暴れられた場合、付近に燃え広がって大災害に繋がるおそれがあるからであろう。


 怯んだ気配を感じたのだろう。狍鴞の口元が、にやりと釣り上がる。そして、のそりと動く気配を見せた。


 かと思えば、目の前から消える。


「――!?」


 息を呑んだ直後、影が落ちた。

 跳躍した狍鴞が、白羅の目前に迫っていた。


「!!」


 余りの速度に、反応が遅れそうになる。が、気力を奮い立たせ、剣を構え直した直後。突き飛ばされた。


 蹌踉めきながら顔を上げれば、白羅と狍鴞の間に立ち塞がるのは巍脩だった。

 その腕の衣が、大きく裂かれ、血が滴る。狍鴞の爪に裂かれたと見えた。


「巍脩!!」

「問題無い。敵に集中しろ」


 巍脩が白羅の前に出なければ、怪我を負っていたのは白羅だったろう。先程から、失態続きだ。

 歯噛みした白羅は剣を構え直し、横から狍鴞の腋下の目を狙った。


 それを察したらしい狍鴞の前肢が動く。

 その攻撃を掻い潜り、転びながら何度も目を狙う。白羅の腕や足に、幾つも傷が生じる。白羅の意図を察した巍脩も協力した。

 

 はじめ戯れ、弄ぶような反応だった狍鴞の対応に、苛立ちが滲む。それでも白羅は諦めず、攻防の末、やっとのことで片目に剣を突き刺した。


 鋭い悲鳴が上がった。

 直後、白羅の身体は、狍鴞の腕に飛ばされた。


 木に激突しそうな所を、素早く移動した白虎が受け止める。


 怒り狂い、暴れ狂う狍鴞の、目のない顔が、白羅の方を向いた。

 言葉で表せないような悍ましい声を立てて、狍鴞がこちらへ突進してくる。

 

 横から巍脩の青龍が狍鴞に体当たりしようとしたようだったが、怒り狂った狍鴞の腕に弾き返された。あの巨体をああも易々とはね返せるとは、恐ろしい膂力である。


 再度、狍鴞がこちらを向いた。

 迎え撃とうと構えた満身創痍の白羅の額を、冷たい汗が流れた。


 その時である。


 柔らかな花のあまい香りがして、頭上を影が一瞬過った。

 

 清楚な白い衣が風をはらみ、烏の濡れ羽色の髪をゆったりと翻し。翡翠の簪が清らかに髪を彩る。


 仙境から地上へと飛来する仙子さながらに、一人の女人が、静かにその場に舞い降りた。


―――――――――――――

【補足】

■前回の答え。

『山海經校註』(上海古籍)に郭璞の註が載っており、そちらによると、

 「狍鴞」=「饕餮とうてつ」の事であろうとしております。


■今回登場した、謎の女性は、重要人物です。

「群像劇」のタグ通り、キャラが多くて申し訳ございません。

この人を登場させるためにこのエピソードはあると言っても過言ではないので、

覚えておいていただけると嬉しいです。

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