第四十一

 足音を殺して下へ下へと進んでいた旣魄と浧湑の目に、階の終わりが見えてきた。

 琵琶の音は未だ鳴り響いている。柔らかに地上に降り注ぐ月の光のような繊細な響き。それは明らかに、この奥から響いてきていた。


 何者かの気配も。


 その気配を追った旣魄の目が、無明の闇の中に佇む――体格からして、明らかに男――の影を捉えた。


 こちらに背を向けるようにして、立ったまま琵琶を弾いているようだった。

 男が立つ空間は広々と開けて、高さもある。十分に距離を置いて、その背を観察する。


 ふと、琵琶の音が途絶える。


 男が、ゆっくりと旣魄を振り向く。

 腕に抱えられていたのは、雪の様に白く美しい琵琶だった。琴頭の部分には玉がはめ込まれ、精緻な牡丹の花が彫刻された、凝った造りだ。面板には螺鈿で三日月が描かれている。


 対照的に、男の衣は場に溶け込むような漆黒。旣魄同様、袖の無い斗篷外套を纏い、頭部を覆う帽を被っている。その隙間から覗く、鋭くもしずかな双眸は、氷山を思わせる深い冰藍色。


 旣魄をして、はっとせしめる程、顔立ちの整った男だ。伏し目がちな目元、頬から顎にかけてのすっきりとした輪郭、整った鼻梁。それら全て、どこか冷たげな印象だが、酷薄という程でも無く、寧ろ静謐で神秘的な品が漂う。


 帽から覗く顔立ちの限りでは、年齢は読み取れない。旣魄と同じ位にも見えるし、ずっと年上のようにも見えた。神仙だと言われても、否定しがたい佇まいだ。


 だが、旣魄が息を呑んだのは、それだけが原因ではなかった。男の目を見た時、そのまなざしに既視感を覚えたからだった。


 さりげない立ち姿は、琵琶で両手が塞がっているのにもかかわらず、全く隙が無い。腰に佩くのは剣。その身のこなしだけで、相当な手練れと見えた。

 旣魄は知らず、身構える。

 

 一方、男は旣魄を見ても、警戒する様子も無く、淡々とした態度のままだった。


“――の子か。……似ている”


 そんな声が聞こえて、旣魄は小さく柳眉を寄せた。


 目の前の男が口を開いたのではない。男の口元は微動だにしていない。

 ただ、頭にその言葉が響いた。


 落ち着き払った、朴訥とした響きの声。


 遠くまで見通す様な目で旣魄を射貫く。表情は変わらぬままに、小さく口を動かした。何かを言ったようだったが、聞き取れなかった。


 直後、男の掌が目の前にあった。殺意も敵意もない、無造作な所作に、旣魄は反応が遅れた。男の動きは、ゆったりしたように見えながら、その実、凄まじくはやかった。


“――座れ。……ぞ”


 中指と人差し指を揃えて、旣魄の眉間に当てる。


「――!?」


 直後。

 脳裏を、何かが駆け巡っていく。それはさながら、奔流に飲み込まれるように。抗いようも無く。


 ぐらりと身が傾いだ。


「旣魄!?」



  * * *


 黄昏時の山道を、三つの影が並んで歩いて居た。内二つは、白羅はくら巍脩ぎしゅうである。


「報告があったのはこの辺りですか?」

「そうだよ」


 巍脩の問いに答えたのは、茶に近い柔らかな玫瑰灰の髪と目をした男だ。歳の頃は三十半ばに差し掛かろうかという偉丈夫である。一方、眼差しは理知的で穏やかな風情で、君子の風格を備えていた。


 男は南寧心なん・ねいしん。大雅の叔父である。


 四王の家門に属し、四神獣の守護を持つ子女は、国の安寧の為、民の安全の為に尽くす義務があった。時折人間じんかんに現れて人々を襲う妖魔を討伐するのは、その、主な役目の一つである。


 白羅と巍脩も、最近、この辺りで度々、家畜や人を襲う妖魔が出没すると聞いて、やってきたのであった。寧心は、その助言者兼見届け役である。


 二人が危機に陥れば彼自身が手を貸すこともあるが、基本的にはこの一件を任されたのは白羅と巍脩である。今日は、大雅は別行動だった。彼は、白羅の母・西王とともに、より上級の妖魔の討伐に付き添っていた。

 それぞれの守護は持っている気の質が異なる。討伐には、異なる神獣の守護持ちが組んで向かうことが多かった。白羅と巍脩が一緒に来たのもその為である。


 元々、産まれた歳も一緒。家柄も同列。跡取り息子、娘という点も同じ。勉強や修行を始めた時期も同じな上、守護を得た時期もほぼ同時期であった白羅と巍脩は何かと張り合う仲だった。とはいえ、なんだかんだと大雅にくっついて一緒に歩いている様子などを、周囲の大人達は、概ね微笑ましく見ていた。


 そんな、白羅と巍脩である。


 程よいところで止めてくれる大雅がいない為、二人は道中、つまらない言い争いを繰り返して、穏やかな気性の寧心をあきれさせていた。

 

「まずは妖魔の痕跡がないか、調べて御覧」


 寧心は、妖魔の痕跡の調べ方について、懇切丁寧に説明してくれる。二人とも、勿論学んでいたことだ。しかし、十代から何かと妖魔退治に駆り出される事の多かったという寧心の説明は、座学だけでは学べない、彼独自の豊富な経験に基づいたものも多く、気が付けば二人とも夢中になって聞いていた。


「はは。二人とも勉強熱心だね」


 おおらかな微笑みは、白羅と巍脩、それぞれの心にぽっと灯を燃すような、あたたかなものだ。人品・才覚、ともに優れた寧心は、庶出ながら、彼をこそ南王に、と推す声が多かったのも頷ける。

 大雅には申し訳無いが、彼の父である南王・烈心は、とかく素行の悪い人物で知られていた。実の子である大雅も、父を毛嫌いしているのは確かだった。


 南王本人も、庶出の弟の方が人望の厚いのを知っていて、寧心が人々との繋がりを固めて自分に対抗しないよう、妖魔退治を頻繁に押しつけていると、もっぱらの噂だった。彼が未だに妻帯していないのも、南王が妨害しているのだ、というのだが、白羅にはいまいち良く分からなかった。


「……報告より多いな。それに。何か妙だ」


 厳しい顔で、地面に残った妖魔の痕跡を確認していた寧心が零す。


 直後、烏がけたたましい鳴き声を上げて飛び去っていく。

 先程まで聞こえていた虫の声や、木々のざわめきが、消える。

 妙に静まり返った場の異様な雰囲気に、気を引き締めた。

 ふと、白羅の鼻腔を、鉄を含んだ臭いが掠める。


「……どこから……」


 辺りを見回した白羅を、頭上から落ちてきた、生ぬるい、どろりとした液体が濡らした。


「え?」


――顔を上げてはならない。


 そう、本能は叫んでいた。

 それでも、半ば反射的に顔を上げてしまった白羅の金緑の目と、光をうつさない昏い目とが、落日の紅の中、確かに合った。




――――――――――――

【余談】

■謎の男が登場しました。

なんだか旣魄と関わりがあるようです。

男の目の「冰藍色」は、「アイスブルー」だと思っていただければ。


■巫師が話していたように、皓月や旣魄達が暮らしている段階では、妖魔というのは激減しています。が、過去には、割と頻繁に出没しておりました。

一体何故、妖魔が激減したのか。

それも今後、明らかになっていきます。

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