紀第八 幽韻に彼方の俤を垣間見て

第四十

 闇雲に歩き回っても無駄と悟った旣魄は、やや広さのある空間の隅に座り込み、帳面を見下ろしながら思案していた。片手には携行用の筆を手にしている。


 妃の命の刻限を、巫師は二日、と見積もっていた。焦燥を努めて押さえ込み、旣魄は考えを巡らせる。


「旣魄。まだここに残るつもりか」


 傍らに浧湑の気配がして、肩越しに旣魄が書いた文字をのぞき込んで来た。

 颱の皇宮秘庫で見つけた、五篇の韻文。その中でも特に、一つだけ、うまく意味の取れなかった詩があった。かなり長篇のものだ。

 秘庫から帰ってきた日の夜、旣魄はそれを宿で写していた。良く分からなかったからこそ、妙に記憶に残っていた。純粋な探究心というか、好奇心だった。とはいえ、記憶力に自信のある旣魄でも、直後でなければ、流石に見たものの全てを写しきれはしなかっただろうが。


「聞いていただろう」

「こんなところから、あるかどうかも怪しい秘伝を見つけるなんて、砂漠から針を探すようなもんだぞ」

「砂漠を見たことが?」

「……ない」


 ぐだぐだ言い始めた浧湑を無視して、思い出せるだけ他の四篇も、書き出してみる。

 まずは魄の言葉で。その横に、浩の言葉で。


「僵尸の群を放つ、って言ったって、今から戻れば対策する時間はあるだろう」

「お前の言う対策は、浩に僵尸が入ってこないようにする対策、だろう」

「颱の事まで気に掛ける必要が?」

「同盟を組んでいるのを忘れたか? 我が国の使臣だけでなく、商隊も、颱を盛んに往来しているんだぞ」


 妃が浩にやってきて、これまで浩では見かけたこともないような颱の文物が大量にもたらされ、評判になりつつある。女人の治める国ならではの、優美な装飾品の類や、香木や茶。また良質な玉や、硯石など。反応したのは、浩の士族階級の女人達、或いは妻や娘を持つ男達だった。


「盧梟と戦をしてるんだろ? だったら一人位、戦況を占う巫官が随行しているんじゃないか?」

「浩ならば。――颱巫はそう皇都から離れることはないと聞く。颱帝が不在で、皇太女も不在。すると相が命を出すことになるが、颱巫の派遣命令は、すぐには出せないはずだ」


 妃が自ら動いたのも、もともと、颱帝が不在になった以上、皇太女が自ら都を動く訳にはいかない筈と考えたためだろう。が、その予測に反して、皇太女はやってきた。何か考えがあったのだろうか。

 そんなことを言い合っている間に、四篇分も書き上がった。最初の段階で意味を取れていたから、これらはすんなり思い出せた。

 とはいえ、やはり気になるのはあらかじめ写しておいた詩篇だ。同じ形の語が比較的同じ間隔ごとに置かれているのは、語勢を整える“兮”字に近いものだろうか。


 じっくりと眺めていると、何か、文字それ自体が躍動するような、不思議な感覚があった。何か、一つ一つの文字が、意思を持って動き出すような。

 

 ふと顔を上げた旣魄の視界の端に、来た時には気付かなかったが、円形の金属製のものが落ちていた。鏡のようだった。

 なんとなく拾ってみる。長年放置されていたようだったが、拭って軽く汚れを落とすと、錆びた様子もなく、美しい輝きを放つ。覗き込むと、自分の顔がぼんやり映し出される。


 ふと、鏡越し、自分の背後の壁に、扉のあるのが見えた。しかし、振り返って見ても、何の変哲も無い石壁があるばかりである。

 試しに、鏡をのぞき込みながらその扉へ向かって歩いて行く。壁にその手が触れた瞬間、壁が発光したかと思うと、次いで壁に何か陣のようなものが光で描かれていって、旣魄は僅かにくらりとした。壁だと思っていたところが、急に無くなり、中へ引っ張られるような感覚があった。


「!」


 唐突に、旣魄の目の前に、黒い塊の一群が飛び込んできた。よく見ると、それは人の姿を象った像だった。先程のような、墓場かなにかだろうかと思いつつ、一番手近な像を見てみる。すると、背中の位置に、やはり文字が記されているのを見つけた。よく見ようと、汚れを手で払う。


 文字に触れた時である。唐突に脳に聞き慣れない響きの音が浮かぶ。


 どうやらこの文字の読みらしい。耳慣れない響きの筈なのに、一方で何か、懐かしさも覚えるのが不思議だった。それとほぼ同時に、何かが体の中に流れ込んでくるような感覚があった。


 暗い石室内が、大波の打ち付ける断崖へ変化する。暗雲が空を覆い、針のような雨が降り注ぎ、雷霆が鳴り響く。そこに、誰かが立っている。


 驚いて思わず手を離すと、元の、物言わぬ像の並ぶ無明の石室に戻る。


 思わぬできごとの連続に、流石に旣魄も戸惑いを覚えた。だが、これこそが、あの巫師が旣魄に例の秘法を捜しに行かせた理由なのかもしれない。恐らく、魄の一族か、月寵子であることと、関連があるのだろう。


「なんだ、ここは」


 浧湑が戸惑いの声を上げる。旣魄はもう一度、像の文字を確認する。


 その文字に見覚えがあって、旣魄は懐から先程眺めて居た帳面を取り出した。


「――これだ」


 最後に同じ並びの文字があった。うまく意味が取れないと思っていたが。もしかすると、人名なのか。僅かにそんな考えが浮かぶ。


 直後、旣魄は苦笑した。


 秘庫に忍び込んだ時、妃の動きを予測していたらしき颱帝に、妃が苛立った理由が分かった気がする。

 皇宮秘庫の書棚で、旣魄が見ていたのは石版が並んでいた界隈だった。が、その内の五つに目が留まったのは、ぴしりと並んだ石版が、そこだけ微妙にずれていたからだ。あれも、女帝がしていった細工なのであれば、旣魄も見事に嵌められたという訳だ。

 自分の意志で動いていると思っていたのが、別の誰かによってそう動かされたのだと気付けば、多少なりの苛立ちが生じるのも当然だろう。だが、恐らく今はそれに助けられているのだろうから、文句を言ってはいられない。


(……それにしても……)


 像に記された名と思しき文字。

 どうも、人の名前にするにしては物騒というか、不穏な響きだ。

 この像に記されたものを、浩の言葉に直すならば、さしずめ「久疾長患い」といったところだろうか。


 魔除けの為に、我が子に人間ではないような小字を付ける事はままある。子豚などと小字を付けられた皇帝も、過去にいる。或いは、その類なのだろうか。


 そんなことを思いながら、一つひとつ、像を確認していく。

 術が施されているのだろう。

 像に記される文字に触れる度、石室は戦場に変わったり、典雅な皇宮風の建物に変わったり、あるいは山川に変わったりした。


 様々な人々が旣魄の目の前を行き交い、剣戟を交わして争い、言葉を交わしたりもしたし、神怪の類いと思しき半人半獣の姿の者や、見たことの無いような獣が出てきたりもした。


 いくつかを調べたところで、それらほとんど全てが、その詩の中に記されていることが確認出来た。


 一番奥に、祭壇らしきものが眼に入る。その前に、更に下へ続いていく階があった。


 ――この場所は、一族の“記憶”を伝える場所なのかも知れない。


 ふと、そんな考えが浮かぶ。

 では、この詩は、何を意味するだろう。関連があるのには違いない。


 四字で一句を基本とし、それを二句連ねて一対と為し、韻を踏み、時折換韻しながら連ねていく。何かひたすらに問いを連ねていくのは、巫達の行う卜問ぼくもんを想起させる。即ち、神人の問答である。ただし、ここにあるのは問いばかりで、対、即ち答えは書かれていないのだが。


 問いとは、見方を変えれば相手への要求である。こたえのあることを要求するものであるが故。


 それをさらに突き詰めていくと、相手への攻撃と化すことすらある。なぜ、斯く在るのだ、と。そこには既に、相手の答えに対する期待はない。問うことで以て、相手を責め、しかり、そして、相手より優位に立ち、それを使役する――そういった、巫の法というのも存在する。


 もう少し進めば、また見えてくるものもあろう。旣魄は一通り像を確認し、必要に応じて記録し、他に何か手がかりになりそうなことは無いか、おかしな点は無いかを調べた。


「こんなところか……」


 あとで何が役に立つか分からない。そして、進んだ先で確認したいときに戻ってこられるかも怪しいし、引き返す時間が惜しい。

 一通り記録を終えた旣魄は、祭壇の前にある階を下りた。

 

 長い階段だった。

 どこまで続いているのか。分からぬ程の。


 ふと、旣魄の耳に、琵琶の音が聞こえてきた。

 それは、下りていく程に大きくなっていく。

 その曲に、旣魄は聞き覚えがあった。――昔、乳母に教えて貰った、母后の故郷のうた、である。


 そう思いながら、警戒もした。 

 楽の音がする、ということは、それを弾いている、ということだ。


 毒気の満ちたこの山に敢えて踏み込もうという者は。

 果たして、敵か、否か。


 旣魄と浧湑は、慎重に歩みを進めた。

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