第三十九
――深く。どこかに沈んでいくような感覚。
けれども、瞬きの後には、その身は、白い毛並みの虎の背にある。皓月は、その背に乗って、空を駆けているようだった。
* * *
倒れた少女を医者に診せるべく、白虎に少女を乗せ、空を駆ける白羅は、眼下に皇都の城門に差し掛かろうという長い隊列を見つけた。玄旗を掲げるのは、北王の軍だ。軍には軍医が随行するのが常であり、北王の軍には、巍脩の姉が軍医として同行していた筈だった。
高度を下げて近づいていくと、向こうの方が白羅に気付いたようだった。左右に隆々たる威容の武将を従えた一人の女性が、白羅を見上げて微笑み、片手を挙げて歩みを止めさせた。白羅はその人目がけて急下降したその時、頭上に影が過った。
「――!?」
巨大な青い体毛の犬が、白羅と白虎を目がけて飛びかかってきた。
白羅の白虎は、身を躱してそれを避け、鋭く吼えた。
「
人を食らう妖魔である。こんな皇都の近くに出没することはない筈だった。戸惑いつつも、白羅が剣を抜こうとしたその時、目の前を、黒い影が動いた。
するどい鋼の煌めきが、白羅の目を刺す。その人はまるで、水中を自在に泳ぎ回る龍女のように中空を滑るように駆けて、白羅たちと襲いかかる獣の間に入り込み、さっと剣を振るった。
舞を舞うかの如き鮮やかな動き。思わず時が止まったかのような感覚を覚え、眼を奪われる。
直後、獣の身体が、派手に血をまき散らしながら四散した。
が、その人は一滴の返り血も浴びず、いっそ優雅ささえ感じさせる動きで元の位置へと戻った。
白羅は、白虎から飛び降りると膝を着いて拝礼した。
「西白羅、――北王殿下にご挨拶致します」
「お久しぶりですね、白羅」
穏やかな声が響いた。それは、深々としみ込む雪の様に柔らかだが、芯の強さも響きの中に含んでいた。促されて顔を上げる。艶やかな黒髪は、動きやすく高い位置で結ばれながら、少し凝った結び方をしており、銀の
纏うは裾に海棠の刺繍を施した玄い戦袍。その袖から覗く白く細い手も、柳楊のようにしなやかな肢体も、嫋やかで、とても武器を手に妖魔を斬り捨ててしまう武人には見えない。白羅に向けた微笑みも、深窓育ちの姫君のように儚げな風情である。
が、この人こそ、“
実際、たった今、白羅たちに襲いかかった、人を襲い、食らう妖魔・蜪犬を一太刀で絶命させてしまった。あれとて何人もの人を殺めている兇暴な獣であるが、武儒にとっては、蟻を踏み潰すに等しい。
その余りの美しさ故、敵味方問わず、戦いの最中だろうと、その美しさに夢中になって気を散らしてしまうため、戦闘中は面を掛けているのだったが。帰還の道中だったため、今はそれを帯に下げていた。そのため、素顔で剣を振るう北王殿下という貴重なものを見られた感動と衝撃とで、白羅は言葉もしどろもどろだったが、何とか言葉を紡ぎ出す。
「北王殿下の御手を患わせまして、誠に申し訳ございません」
「気にしないでください、白羅。あなたは我らにとって大切な存在ですからね」
そう言ったあとで、武儒は、白羅が白虎の背に載せた少女にチラリと目をやると、僅かに眉を顰めた。
「……その子は、どうしたのです」
白羅は、大雅と巍脩とで横転した馬車を見つけたこと、そこで女性と御者が殺されていたこと、馬車の中で少女を見つけた経緯を手短に説明した。
「惨いことを。――北王府では目立つ。
*
北王・武儒が呼んでくれた汕娥の指示で、皇都郊外にある薬院に少女を運んだ。汕娥は、巍脩の姉である。この薬院は、汕娥の師が営んでいるのだという。
一通り少女の状態を確認するのを待っていると、巍脩と大雅が遅れてやってきた。馬車の方も、北王が人を寄越して、色々と事後処理をしてくれたらしい。
少女は、傷も病も無く、少し休ませて、眼が覚めれば特に問題は無い、ということだった。
その日は、北王の帰還を祝う祝宴が、皇宮で行われた。
翌日、北王府で、皇宮のものよりはもう少し内輪の、四王とその一族の主だった者たちが呼ばれる宴が催された。昊帝を戴き、四方の柱たる四王は、古来より横のつながりを重んじていた。四方の均衡を保つことが天下の安寧につながると考えていたためだった。
そのため、四王の一族の内、四霊の守護を持ちうると判断された子女達は、幼い内から皇都の四極院という学び舎に集ってともに学び、鍛え、切磋琢磨に努めた。その指南役も、当代の四王を始め、一族の優れた者達で多く構成された他、皇宮から遣わされた高名な学者もいた。
そういう繋がりがあるため、成人前ながら、白羅達も、宴には呼ばれていた。夕刻に始まる予定だったが、少し早く来る様に、という報せを受けて参上すれば、巍脩や大雅も来ていた。白羅同様に、早めに呼ばれたのだという。
三人は一緒に、武儒の元に通された。
「来ましたね。三人とも、昨日はご苦労様でした」
凜とした戦袍から、上品な黒と青の襦裙に改めた北王の姿は、水の女神の如き麗しさだ。
「昨日の少女の様子は、いかがですか?」
「怪我や病気はないようでしたが・・・・・・」
武儒の問いに、巍脩が答える。珍しく歯切れが悪いのに、武儒は続きを促す。
「何か問題が?」
「今朝方、目を覚ましたのですが。我々の言葉が通じないようで、こちらを警戒しており、意思の疎通が図れないようだ、と」
「・・・・・・そうですか・・・・・・」
武儒の瞳に、愁う様な色が滲んで、しばし口を閉ざす。
「貴方がたは、いずれ、おのおの国の柱たるべき存在。故にこの話をします。これから話すことは、妄りに余人に話さぬように。宜しいですね?」
漆黒の双眸が、射貫くように三人を見据えた。その威圧感に、ぶわりと汗が噴き出すのを覚えながら、白羅は頷いた。巍脩も硬い表情で頷き、大雅ばかりは、いつもとそう変わらない態度だ。
「あの少女は、魄の子でしょう」
「魄?」
「その呼称の由来は、様々に言われております。主なものですと、白い髪や目を持ち、鬼術を扱う、神秘の一族。故に、魄と。或いは、彼らは月の女神の
白羅の脳裏に、昨日目撃した凄惨な光景が浮かぶ。女人と思しき遺体からは頭部が切断され、爪も全て剝がされていた。
「不老不死。つまり、――仙丹の様な効果を得るということですか?」
世に流布する、不老長生を叶えるという“仙薬”の多くは、「久しく服すれば身を軽くし、老いず、寿命を延ばす」云々などと説明されるものが多い。「長い間飲み続ければ」と説明するところがミソで、どれくらいの期間かが明示されていない。仮に飲んでいる途中で、服用者が死んでしまったところで、「服用期間が短かったのだ」など、いくらでも言いようはある。故に、一粒飲めば忽ち寿命を延ばすような本物には、なかなか巡り会えないのが実際である。
「無論、妄誕の類です。が、それを本気にして、手当たり次第に魄の民を襲う愚か者が密かに跳梁しているのは、本当です。わたくしも、此度の遠征で、何度か目にいたしました。仙たる骨相を持つでもなく、優れた仙才をもつのでもなく。かといって、善行を積み、地道に修仙の道に励むのでもなく。己の分を超えた不死長生を、他者の命によって贖うなど言語道断。看過してはおれません」
少女を見た時、武儒が顔を顰めたのはそれでだったか、と思い至る。と、同時に白羅は青くなった。そんな事情を知らず、大勢の目に少女を曝してしまった。
そんな白羅の危惧を見抜いてか、武儒は白羅に目を寄越して口を開く。
「幸いにして、少女を連れてきたのは、似たような髪色をしている白羅でした。白虎に載せてもいましたから、彼女が西王家に連なる者と、周囲は認識したことでしょう」
白羅はほっとして少し息を吐く。その横で、大雅が口を開く。
「保護か、取り締まりが必要なのではありませんか」
「本来ならば、そうすべきでしょう。が、それを彼らが望むのかということがあります。その上、保護しようにも、彼らがどこに住んでいるのかが、そもそもよくわかっていないのです。どこか集落の様なものを作り、集団で過ごしているのか、或いはバラバラに巷間に身を隠しているのか、またどれくらいの規模の集団なのか。全て謎です。――此度の様なことが頻繁に起こるようになってから、魄人は姿を隠してしまっているので、ますます謎です。かといって、魄人を襲う者達の方の取り締まりを強化しようと思えば、却って、魄のことが人々に知れ渡ることになる。さすれば自然、人々の興味をかき立て、第二、第三の愚か者が生じないとも限らない。結局、水面下で調査を続けるしかないのです」
「我々は何をすれば?」
「まず、少女の事については余人には知らせぬこと。その上で――少女の事は、白羅に任せます。女同士ですし、年ごろも近い」
急に指名されて、白羅は面食らって武儒を見返した。
「わ、私が?」
「白虎殿にはわたくしから伝えます。最善は、少女を一刻も早く一族の元に帰してあげることです。それがかなわなくとも、少女の安全を確保することも重要です」
敬愛する武儒から役目を任されるのは光栄な事だったが、言葉の通じない少女の相手を一人でするのは不安だった。
「白羅、心配するな。俺も協力する」
大雅が肩を軽く叩いて言ってくれる。巍脩はいつも通り、怒ったような表情で何も言わなかったが、大雅の言葉に同意するように頷いた。
「うん。ありがとう」
笑顔になって、「頑張ります!」と意気込む白羅を、武儒は何かもの言いたげな眼で見ていた。
*
宴も酣が過ぎ、大人達との会話に疲れた白羅は、一人院子に出てきていた。夜露を含んでしっとりと香る花々に心が安らぐ。
そんな彼女に、声を掛けてきたのは、矢張り一人で出てきたらしき武儒だった。
かなりの量の酒を飲んでいたようだが、そんな素振りもなく、いつも通りの静謐な佇まいだ。
「相変わらず、彼らと仲が良いのですね」
彼ら、とは巍脩と大雅のことだろう。
何か、言外に含む所を感じ取って、白羅は反応に躊躇った。
親戚である大雅は、白羅にとっては、兄のような存在だ。一方、巍脩は、そんな大雅にくっついているので、何かと顔を合わせることが多かった。同い年でもあり、学び舎では、何かと張り合う仲でもある。とはいえ、そこまで、仲が良いという感覚はなかった。
だが、端から見ればそう見えるのかも知れなかった。
「――でも、白羅。貴女も、もう数年で
「武儒様?」
首を傾げる白羅に、武儒はもの言いたげな目を向けた。
「……皇上にお仕えする我らは、天下万民の為、一族の為。己を空しゅうし、――己の行動が及ぼす結果に思いを致さなければなりません。白羅。男女の仲というのは、難しいものです。単純な利得ならば、ある程度予想は付く。制御も出来る。だが、情愛ばかりは……。思っているだけでは、どうにもならないことがある。例え思いが通じ合っても、必ずしも思う相手と一緒には居られないこともある。それでも、どうにかならないものかと、もがきたくなってしまう――」
どこか遠くを――見るような武儒の眼が、薄青い光をまとっているように見えた。
――春心 花と共に
一寸の相思 一寸の灰……
(胸のうちに秘めた想いを、春の花々と競うように咲かせてはいけない。
燃える思いは、次の瞬間には灰となって消えてしまうのだから。)
言葉を切って、黙り込んだ武儒と。武儒が黙り込んだ為に、また黙り込んだ白羅と。その間を、零れおちる涙の雫のような琵琶の音と、宴に呼ばれた歌妓の、哀切に満ちた歌声が流れていった。
「……白虎の守護を持つ貴女は、毒など恐れるものではない。けれども、それがいつか、貴女の心に猛毒を注ぎ込むことになるやもしれません」
未だ男女の情愛などというものを解しない白羅には、武儒の言葉は、半分も理解出来なかった。
ただ、誰もが憧れを抱く、人柄も優れ、美しい武儒でも、そんな、息の詰まるような、引き裂かれるような思いを抱えたことがあったのだろうかと。……思えば、何となく恐ろしいような気がした。
かつて武儒には婚約者がいたという。誰かは明らかにされていないが。
今だに彼女が結婚もせず、婚約者もいないのは、もしかして、そこに理由があるのかもしれなかった。
深刻な表情の白羅に気付いた武儒は、少し微笑んだ。
「――思ったより酔ってしまっていたようですね。こんな話をしてしまうなんて。もう、戻りましょう」
頷いて、白羅は武儒に従って中へ戻った。そして、時間も遅くなってきたので、成人未満の年少者たちは帰る時間となった。白羅も、母である西王に声を掛けて、馬車で先に邸に帰った。
道々、いつもとは違う、武儒の様子を思い出しながら。
――そして、白羅は後に、この時の武儒の言葉を、何度となく反芻することになる。
――――――――――――――
登場人物紹介を追加しています。
【補足】
引用の詩は李商隠の詩です。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます