第三十八

 一体、どれくらいぶりに外に出ただろう。音を立てて流れていく風の感覚を、皓月は心から懐かしいと思った。

 深く息を吸い込む。だが、心臓をつかまれるような痛みが走って咽せるように咳き込んだ。


「――おい。大丈夫かよ」


 背後の黎駽れい・けんが肩を叩いて尋ねてきた。皓月は思わずその手を振り払おうとしたが、その力が出なかった。結局「放せ」と弱々しい声が出ただけだ。


 馬に乗せられたが、一人では歩いている馬にすら座っていられない程に衰弱していた。黎駽に支えられるのが、この上もなく不愉快だった。我慢できずに歩くと言ったが、許されない。結局、彼らの営地に行くまでそのままだった。


 彼らの用意した天幕に連れて行かれるや、用意された寝具に倒れ込んだのだった。


 敵地で一人きり、これまでの皓月だったら、恐らく眠ることは勿論のこと、横になることさえしなかっただろう。が、すでに体力的に限界に達していた皓月は、途端に気絶するようにして、眠りに落ちた。



 再び目を覚ました時には、傍らに盧梟の少女が座っていたのだった。

 黎湘雲れい・しょううんと名乗った少女は、黎駽の妹だという。


「兄の無礼を、お詫び申し上げます。全ては玄武の守護を失ってより以来このかた、艱苦に喘ぐ一族の者達の為にしたことにございますれば」


 思わぬ鄭重さで少女は頭を下げる。長い袖からチラリと覗く細い指先はカサついている。


 北部は、生きて行くには厳しい環境だ。慢性的な水不足。寒冷な気候。植物はまともに育たず、獣を狩ろうにも、獣自体が多くはない。かつては定住していた北部の民だったが、今では、水を求め食物を求め、少しでもな環境を求め、年中移動生活と聞く。


「謝罪は不要。――そなたの兄の立場は、分かって居る」


 別に黎駽個人への恨みや怒りはない。ただ、利害が一致しないだけだ。個人的な怒りというのならば、寧ろその傍にいる臾屢という巫師の方が強い。あの者から受けた呪詛のせいで、母帝を探すという当初の目的は全く進んでいない。どころか、却って自分が危機に陥るという失態。


「まだ、お辛いのでしょう。どうか、ごゆっくりお休み下さい。お側に控えて居りますので、何かございましたらお声掛けくださいまし」


 再度頭を下げ、湘雲は出て行った。

 皓月は、寝床に横になる。用意された寝具は、柄は華やかだが、使い込まれていることが窺えた。

 小さく息を吐いて、皓月はしばし、盧梟の民の生活に思いを致した。颱の元に下るのならば、彼らの生活は、今よりは楽になるだろう。が、彼らにとっては、別の何かを捨てることになるのかもしれない。そして、彼らにとってはそれが、譲れないことなのだろう。故に、相容れない。


 気分は重苦しかったが、ここに来たときよりも、不思議と身体が軽いような気がする。


 ふと目を横に転じれば、傍らに、笛子を収めた袋が目に入る。身を起こした皓月は、それを手に取った。


 今も、玄冥山の中を、一人歩いて居るのだろうか。


 彼らは皇太子を単に皓月の護衛だと思っているから、あんな条件を出したのだろう。彼が、颱と長年因縁のある浩の皇太子その人だと知っていれば、どれ程間抜けな提案をしたかは、童子こどもにだって分かる。


 皇太子自ら周貴妃一派を一掃した今、颱国出身の妃を持つことの意味は薄らいでいる筈だ。今後の舵取りのしようによっては、寧ろ、足枷にすらなりうる。そして、仮に皓月自身も颱の為に動けと母皇から命じられれば、否やは言えない。


 それなのに、皇太子は、巫師達の要求に、あっさり頷いた。


 何か考えがあってのことではあろう。けれども、労力の割に、皇太子の得るものは少ない筈だった。

 だから、辟邪香を返そうとしたとき――本当は、あの時、自分に構わず、戻るように言おうと思ったのだ。颱のことは、颱で解決すべきことだと。


 それなのに、は、却って皓月に愛用の笛子を預けた。

 湖面のように静かで深い、銀の眼差し。だが、あの瞬間に、その底方そこいに浮かんで居たのは……。あの目を見た瞬間、皓月は理解したのだ。今、言うべきはこの言葉ではない、と。


 この瞬間、自分が決断すべきは、旣魄を信じるか、否か。ただそれだけだと。


 人を信じたが為に、痛い目を見たというのに。

 そんな思いが、僅かに過りもしたが。それでも、決めたのだ。


 笛子を袋から出してみれば、丁寧に使い込まれたが故の艶を含んだ管に、青い組紐をあしらった玉の飾りが。管頭に、銀文字で詩句が刻まれている。

 

  悲莫悲兮生別離悲しみは生別離よりも悲しきは莫く

  樂莫樂兮新相知楽しみは新相知よりも楽しきは莫し

 

 人生における悲しみは、生き別れよりも悲しいものはなく、楽しみは、新たに互いの心を知り合うことよりも楽しいものはない、とうたう古今の名句である。皓月は、少し不思議な感じがした。


 通常、こういったものに刻まれるのは風雅の句が多いものだ。“引きこもり”で、人前に姿を現さず、人との関わりを避けていた旣魄の笛に刻まれているのが、この句とは。


 一体、誰が刻んだのか。まさか、本人ではないだろう。袋の中に笛子をしまいながら考えを巡らす。が、元より分かる筈もないことだ。


 真珠貝のように柔らかな光彩を帯びた、己の爪を見下ろす。

 玄冥山から下りてきたら、こうなっていた。驚いたが、どこか腑に落ちてもいた。母皇がかつて教えてくれたように、父が魄人なのならば、これは、父から受け継いだものなのだろう。


 恐らくは、白虎の守護が封じられたことが関係している。繰り返し見ている、夢も。


 以前、浩帝の暗殺未遂の嫌疑をかけられた際、皓月は黒宮に囚われ、白虎の守護が封じられた。そこで目と舌を抜かれた、老婆の幽鬼と接触し、皓月は白昼夢のように、過去の一場面を


 皓月がみた夢が、過去の実際の一場面を示しているのならば。夢を見ることで母皇の行方がわかるかもしれない。或いは、魄人のことや、この山のことも。制御出来るものなのかどうかは分からないが。

 いずれにせよ、身動きが取れない今、試してみる価値はあるだろう。

 

 皓月は、改めて、横になった。

 程なくして、意識が、深く沈んでいく感覚があった。


 声が、どこからか響いてくる。笑うような。呼ぶような。


(――あれは、誰の声だろう――?)


 胸に何か、重苦しい何かを呑み込んでしまったように。

 苦しみに、息を詰まらせて。





――――――――――――

【補足】

今回引用した詩、

 悲莫悲兮生別離、樂莫樂兮新相知。

 (悲しみは生別離よりも悲しきはく、

 たのしみは新相知よりも樂しきは莫し)は、


『楚辭』九歌「少司命しょうしめい」よりの引用です。


作者は、現存最古の注釈書である王逸の『楚辭章句』では屈原だとしています。以後、各家この説を採るものが多いです。

ただ、時代を下ると、屈原非存在説を主張される方も多いので、断定的には言えないのです。


九歌は、神前で演ずる歌舞劇 の台本という見方がなされています。

篇名はだいたい神の名です。

「司命」は、名の通り、人の寿夭じゅみょう・運命を掌る神と一先ず言っておきます。

なお、「少」とあるのは、「大司命」もあるからです。


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