第三十七
『十三靈耀大法』を探し、
手がかりになりそうなのは時折壁に刻まれた文字のようなもの。あとはいくつかの魄の歌のみ。はっきり言って、無に等しい。
こうして闇雲に歩いたところで、秘中の秘とされたそれを発見できるとは思われない。巫師が敢えて旣魄に探しに行かせようとするのは、魄の人間でなくてはならない理由があるのかも知れない。
“路は、他でもなく、あなた様の中にあるのですよ”
巫師が告げてきた言葉の意味とは、一体。
路、というのは、話の流れから言えば、秘伝へ至るみちのことであろう。それが、他ならぬ旣魄自身の中にあるというのは、どういうことか。
“「
妃が去り際に残した言葉がふと浮かぶ。
女子の“名”は本来秘すべきもの。高貴な身分なれば、尚更。血の繋がった兄弟姉妹にですら明かさないことも多い。故に命名した親以外に、その名を明かす、その意味はとても、重い。
――“
自身の名を明かすことは、まさしく相手に己の命を預けることに等しい。
“字”を明かすわけにはいかない代わりに、却って、より重い意味を持つ“名”を明かした。
それは、常に携えている笛子を、託したことの意味を悟ったからだろうか。
離宮を飛び出したあの夜。
旣魄が、ほぼ唯一持って出たもの。それが、あの笛子だった。
冷遇された皇帝の御子。父皇から名すら与えられず、青龍の守護を持ち、皇子となる可能性も無い。ただ意味もわからぬままに生かされ、それでも亡き皇后の遺児故に命を狙われ、己の周りの者ばかりが命を散らして行った日々。
無数の命の残骸が、ただ己の両肩に降り積もっていくようで、恐ろしかった。だから、瀏客と逸れて賊に捕らえられ、一人になったときは、却って安心もしたのだ。
幾度も死に損ない、その回復力が無ければ、九死したとしても不思議ではない程の苦痛を、全て受け止めざるを得なかった旣魄は、己の死を、些かも恐れていなかった。
ただ、
それを辛うじて繋ぎ止めていたのは、せめて生きている限りは、彼らの命を、その記憶を、留めて置くべきだという思いだ。それ位しかできなかった。それが為に、夜毎に笛子を奏でた。
それ故、あの笛子は、旣魄にとって、決意と約束の象徴でもあったのだった。
それを差し出した旣魄に、妃は己の名で以て応じた。――それは、旣魄を信じる、ということ。
その信頼に、応えたいと思ってしまった。
とはいえ、浩の皇太子としては、必ずしも望ましいことではない。が、もとより旣魄は、そう真面目な皇太子ではない。“
――周貴妃一派を除いた今、この慌ただしさが落ち着いたら? という思いも、正直なところ、あった。
(……しかし。……“清韻”……?)
旣魄は軽く眉を寄せた。重大なことに思い至ったような。
だが、それをたしかめる術は、ここには無い。いずれ、急ぐことでも無い。まずは、その『十三靈耀大法』とやらを見つけることが先決だ。
* * *
無限の闇に音が吸い込まれる暗闇の中を、松明の明かりを頼りに進む
恐ろしく、主君にそっくりな。
敬義にとっては、その程度の認識である。
だから、あの日、己に対する想いを切々と述べる皦玲皇子に対しては、戸惑いしかなかった。
そして、弁明しようにも、敬義は前夜の記憶がまるで無かった。だが、太子中庶子としては、それだけですでに、言い逃れも出来ない程の大失態であることは確かだった。
それ故、ただ頭を下げる他なかった。否、いっその事、あの場で本当に、主君に斬り捨てて貰えば良かったのだ。そうすれば、こんな物思いに引き裂かれることもなかったろうに。
――鄧敬義は、武人のように筋骨隆々という訳ではないが、均整の取れた姿形を持つ、艶やかな黒髪に深い緑色の瞳の、眉目秀麗な青年だった。その上に宰相府の嫡子であり、その有能さから、太子中庶子の筆頭として取り立てられた彼を慕う女性は多かった。
敬義自身、それらを一切、顧みない訳でもなかった。
それ故に、敬義は見逃してしまっていたのだろうか。
正直、今になっても分からない。なぜ、敬義だったのか。
或いは、――本当に、敬義だったのか。
ありがちな皇位継承権を巡っての争いなど、この皦玲皇子にはあり得ないことだと思って居た。皦玲皇子の後見は、表向きは重臣の一人だったが、その実、宜王が背後にいることは明らかだった。とはいえ、宜王に皦玲皇子をもり立てて皇太子に付けようというような野心は微塵も見られなかった。そもそも宜王が、今上の判断に反することはまず、ない。
では皦玲皇子は、と言えば、風家の人々が連れる白虎を怖がり、白虎の守護を得ても、己の白虎すら恐れているといった風に見えた。颱の皇位に在ろうとするならば、当然必要な覇気が、この人からは全く感じられなかったのだ。
一体、何が望みなのか――
「敬義。何を考えて居るの?」
急にくるりと踵を返したその人が、己の腕に、白く細い腕を絡ませてきた。甘い――慣れた筈の月来香の香りに、噎せ返りそうになる。
「また色々と考えていたのね。そなたは考え過ぎる」
見た目には邪気のないその笑みも、その目元も、彼が敬愛する、彼の主君と、やはりよく似ていた。「そなたは考え過ぎる」――その言葉も、何千回と言われてきた言葉だ――そう思えば震える思いがした。
けれども、蠱惑を
――似て非なるが故に、どうしても湧き上がる
「迷ってはだめよ。そなたは、
その声音から、己が今、何をすべきかを察した敬義の足が、ピタリと止まる。
金緑の瞳に映る、己の顔を見る自信が無い。
「……全ては……殿下の御為に」
目を閉じ、繰り言のようにその言葉を呟きながら、白く柔らかな頬にゆっくり手を延べた。
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