第三十一
「
全身から
“影”からの報告で皦玲の居所・紗香宮に赴いた皓月は、閨室中で皦玲と、自身の側近である敬義を発見した。室内や二人の様子から、“ただならぬこと”があったことは、色事に疎い皓月の目にも明々白々だった。
まだ半ば夢の中の様な表情だった敬義は、皓月に名で呼ばれて、漸くはっきりと目が覚めたらしかった。
字を名乗るようになってから、皓月が敬義の姓名を呼び付けにしたのは初めてだった。敬義は、怒り狂った様子の皓月を見上げ、それから自分がどこに居るのか、その傍らにいる皦玲を見て、大きく息を呑んだ。
「……これは、……」
「敬義、まさか昨夜のことを覚えていないの?」
直後、敬義は顔色を変えて飛び出し、叩きつけるような勢いで皓月に頭を下げた。
「申し訳ございません、主君!!――臣は大罪を犯しました!!」
言葉の無い主から、怒りの激しさを感じたか、敬義は何度も頭を打ち付けた。為に血は流れでて、端正なその頬を伝って落ちる。
「――大罪を犯したという自覚があるのなら、二度とその面をわたくしの前に見せるな」
皓月は、腰に佩いていた愛刀に手を掛けて、一気に抜いた。余りの剣幕に、侍官達の悲鳴が上がった。
「――皇太子殿下!! どうか!!」
皇太子・皓月は、勇武を以て名を馳せ、他国の者から恐れられていた。
その一方で、仕えている者達や自国の民に対しては気さくで、寛容な人柄として知られていた。ここまで怒気を露わにした彼女の姿を見たことがある者は皆無であった。故に、尋常ならざる事が起こったのだと、あとからやってきた衛官達も察した。 が、皇子と相国の子息である鄧敬義、いずれもこの場で、皇太子の刀によって血を流させる訳にはいかなかった。
何人もの衛官達が止めに入った。が、皓月の一薙ぎ一薙ぎに、尽く弾き飛ばされた。
皦玲付きの侍官達は、余りの皓月の剣幕に震え、床に額づいていたり、皦玲を守るように盾となって皓月の前に立ち塞がったりしている。
「――お許し下さい!! 姐姐!!」
再度敬義を前に刀を振り上げた皓月の前に、割って入ったのは、皦玲だった。金緑の瞳に、大粒の涙を流し、全身を震わせながら、皓月の前に立った。
流石の皓月も、怒りのままに妹を傷つける訳にいかず、刃を振り下ろしかけた腕を寸前で止めた。
「皦玲!?」
「……わたくしにも、諦められないものがあるのです……!!」
初めて聴いた、皦玲の叫ぶような、しかし強い意思を秘めた声に、皓月は言葉に詰まった。
しかし、直ぐにキッと見返して口を開く。
「それが、国家の大義に勝ることだと!? この男がか!? 皦玲!!」
「――おや。まあ。どうしたことだこれは。大した修羅場だこと」
場違いな程にゆったりとした声が、皓月の続く言葉を断ち切った。
声を共に現れたのは皓月・皦玲たちの母である颱の皇帝であった。跪いた敬義や皦玲、愛刀を抜いた皓月、そして、顔色を青くしている侍官や衛官達。それぞれを、面白そうなものを見るような目付きで、手にした扇ごしに見遣った。
「ほほほ。わたくしの為に、面白いことを画策していると聴いたが、随分体を張ったこと、三人とも。――ああ、驚いた。久しぶりに本気で驚いたわ。だが、流石にこれは過激過ぎでは? 悪ふざけも程々にな。特に皦玲皇子。そなたは嫁入りを控えた身。そなたの名に傷ついてはこと故」
「申し訳ございません、皇上」
はっ、と我に返ったように皦玲が頭を下げた。
「よい。さて、皆、下がりなさい。皇子たちの悪ふざけに付き合わせて悪かったな」
衛官や侍官達は、さっと表情を硬くして頭を下げた。
皇帝が「皇子たちの悪ふざけ」と断じた以上、どんなに無理のある内容であったとしても、それはそうと理解すべきであった。それ以上の詮索は許されない。口の端に上らせてもいけない。颱帝の言葉は、そういうことだった。
人々の気配が去ってから、ゆっくりと皓月達に向き直った母皇は、矢張り微笑んでいた。
「さて。仲の良いそなた等が喧嘩とは。――男の奪い合いか? 困ったものだ。颱の皇宮では忌避されること。だが、こうなっては致し方ない。……愛する者同士の仲を裂くのは、悲劇しか呼ばぬ」
軽い口調で母皇は皦玲を見、そして皓月を見た。母皇が、一体何を言って居るのか、皓月は理解できなかった。
「奪い合いなど――」
「皓月。そなたもまだまだ甘いのう。だから、前から言っておったろうに。臣下たちなり、
やはり軽い口調だったが、皓月を射貫く目が、一瞬にして冷然としたものへ転じた。
「皇太子、――風皓月よ。そなたが浩にゆけ。皇子・皦玲として浩の皇太子の妃となるのだ」
「――!!」
「お待ちください、皇上!!」
これには、皓月よりも、なぜかことの元凶である敬義の方が烈しく反応した。颱帝はそんな敬義の様子に、小首を傾げた。
「向こうには皇子を往かせると言ってあるのだ。王子ではなく。わたくしの皇子は皓月と皦玲しか居らぬ故。皦玲が行けぬのならば、皓月しかおるまい。簡単なこと。浩に付け入る隙を与えてはならぬ。浩の後宮には処女しか入れぬ。異物を入れる訳にはゆかぬからな。皇帝から生まれた、ただそれだけが血の証明となる颱とは事情が違う。――まさか、こうなることを考えて居なかった訳ではおるまい? 太子中庶子、その中でも筆頭格のそなたがその可能性に気付かぬ訳がない。それでも自身の思いに従った、と。――ことはそういうことなのだろう? やれやれ、仕方ない。人の心とは儘ならぬもの。本来なら誅殺ものだが、これは“悪ふざけ”だからの。悪ふざけで死人を出す訳にはゆかぬな」
敬義に発言する隙を与えず、淀みなく言い放つ。
あまりにもあっさりと、自身を浩にやることを決めてしまった母皇に、皓月は絶句し、ただ呆然としていた。衝撃に次ぐ衝撃を、受け止めきれなかった。
「――皓月」
呆然とした皓月の傍らにやってきた母皇がその肩に手を置く。
「そなたは、逃げるでないぞ。まあ、そなたにそのような方法が取れればこんなことにはなっておらぬな」
つまり、皦玲と同じような方法を取るな、と。言って、高々と笑った母皇に、皓月ははっきりと顔を歪めた。それでも、溢れる感情を必死で堪え、唇を噛みしめながら、低く応えた。
「――逃げませぬ」
「よき返事だ。話は以上だ。各々、そのつもりで動きなさい」
言うや踵を返した母皇だったが、ふと立ち止まり、もう一度だけ、皓月に目をやった。
何かおもわしげな母皇の金緑の瞳を、皓月の瞳が呆然と見返した。
「――そなたの思うようにやってみることだ」
皓月は、息を飲んだ。
あの時、皓月は余りの衝撃で、母皇の最後の言葉を聞いていなかった。
“――そなたの思うようにやってみることだ”
母皇は、それを、一体、どういう意味で、皓月に言っていただろうか。
――――――――――――――
【注】
*1 中庶子 「太子中庶子」のこと。皇太子の側近。颱では定員5名。颱の皇太子府は全席埋まっている。一方、浩の東宮府の中庶子は空席。その為に、巫澂(瀏客)がそれに近い仕事もしている様子。
*2 麟趾閣 颱において、各国からの留学生(という名の人質)が住み込みで学ぶ学問所の名。主に属国の王子たちが集まる。
【補足】
「麟趾」とは麒麟の足。転じて、立派な王子たちを指すことから、属国の王子達の集う学び舎の名前として設定しました。なお、「
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