紀第六 月来香は告げる

第三十

旣魄きはく。あそこからでられるんじゃないのか」


 浧湑えいしょが遙か上方を指さしていう。僅かに覗く割れ目から、洗われたように清らかな月の光が差し込んでいる。

 が、旣魄は首を振り、妃を抱え上げて踵を返す。


「あれはだ。外に通じている様に見えるが、実際はそうじゃない」


 確かめた訳でもなく、そうとわかる。浧湑は首を傾げた。

 砕けた岩石を避け、跫音を立てぬよう注意深く歩く。


「それで、状況は?」


 妃を乗せるのを強硬に嫌がった浧湑に、嫌なら周囲を探れと言った。旣魄の側を離れるのを渋ったが。しぶしぶ離れたところで、さっきの落石である。

 一番大きい岩は剣で粉砕したが、一つ目の岩が陰になっていて、避けきれなかった。なんとか妃が潰されるのだけ回避したのだが。

 

 傷の回復速度が、異様に速い。

 最近、以前にも増して速くなったと思ったが、ここへ来て、さらに速くなったように思う。その要因は、何だろうか。


「あ、えーと」


 尋ねられて、浧湑が慌てた様に口を開く。一方、旣魄はじとりとした目で己の青龍を見る。


 妃への怒りに駆られて、間違いなく、――忘れていたな、と。


 この青龍、どうも、一度に複数の事をすることができないらしい。力は強いのだが。しかしそれは、抑えが効かないが故の強さでもある。


「巫師と黎駽れいけんはどうしている」

「中にはいる。こちらを探しているな。あんまり近づき過ぎると向こうが気付きそうだったから、近づかなかったが」


 浧湑の言葉に頷きつつ、足もとに、文字のようなものが刻まれているのを見つける。消えかかっており、何と書いてあるかまでは判別は出来ない。まただ、と思う。ここまで来る内に、旣魄は似たようなものを幾つも見つけていた。旣魄には伺えない規則があるのかもしれないが、等間隔というわけではない。何か意味ありげではある。

 

「――旣魄」


 浧湑の声を聴くまでもなく、遠くから人の気配を感じた旣魄は岩陰に身を隠した。気配は二つだ。

 黎駽と巫師だろうか。そう思いつつ気配を探る。


 程なくして、僅かな炎の光と、声も聞こえてきた。


「――殿下! お待ちください!!」


 その声に、旣魄は聞き覚えがあった。鄧敬義とう・けいぎの声だ。彼が「殿下」と呼ぶのだから、相手は決まったようなものだ。そう思いながらもう一つの、明らかに女人と思しき人物へ、旣魄は注意を向けた。


 清らかながら艶やかな月来香の香りが鼻先を掠めた気がした。

 腕に抱えた妃のそれと良く似ている。未だ距離があるために旣魄が嗅ぎ取ったのは微かな香りではあったのだが、妙に鼻につく。旣魄はそっと柳眉を寄せた。


「――ここは危険です。いつ崩れるとも分からぬのですよ。速やかに戻りましょう」


 恐らく、もう何度となくその提案をしたのだろう。声から、そんな印象を受けた。

 白い衣の女人が、悠然と口を開く。


「敬義。どうして“殿下”と呼ぶの? ――姐姐お姉様の事は名前で呼んでいたでしょう?」


 男の名を呼ぶ声音は、明らかに蠱惑を含んでいる。


「……殿下……」

「また、――だめでしょう? そんな呼び方をしていたら、他の者達に怪しまれてしまうではないの。それとも? まだ姐姐の臣だとでも思っているの? ……をしていて? じゃないの」


 敬義が息を飲む音がした。


「殿下……どうか、それ以上は……」


 堪えるように、その言葉を絞り出す。


 旣魄は、微動だにせずに、主従にしては妙に距離感の近い二人の会話を聞いていた。盗み聞きのようで居心地が悪い。それも、話の内容からして、旣魄が聞いて良い話ではない。だが、後からここへやってきたのは向こうで、勝手に話し始めたのも向こうである。旣魄は誰が来るのかを警戒して隠れただけなのだから。


 二人の間に流れる空気と、婉曲な話しぶり。その間の機微を読み取れぬ程、旣魄は鈍くはない。加えて、これまでの妃の旣魄への接しよう。それらから考えて、何故妃が、名を偽って浩に来たのか、旣魄は大体を理解した。

 

 ――即ち、第二皇女が、になったから、第一皇女であった妃が来たのだ、と。


 正直に花嫁の交換を宣言するには、皇太女の名は余りにも大きすぎた。第二皇女が嫁ぐというよりも当然、大きな衝撃を両国に与えたことだろう。そして、その交換の原因が、特に、浩においてはに違いなかった。他の理由もあったかも知れないが――。


 * * *


 琴の音色が、蒼穹に高く響いていた。太陽を受けて、少女の真珠の肌が柔らかに輝いた。薄紅色に染められた爪先が音を紡ぐ。

 その音色に被さるように、歌声が響いた。琴を奏でていた少女が、ぱっと顔を上げ、花が咲くように喜色を露わにした。そんな気がした。だが、何故か、はっきりとは分からない。その間も、琴を弾ずる手は止まらない。声は段々近づいてくる。

 少女よりも、少し年上と思しき少女が木陰から、日の下に姿を現した。小さな体ながら、すでにどこか威風を漂わせて。もう一人の少女と同様、顔は判然としない。しかし、その桜唇から零れる声は、聞く者を柔らかに貫く繊細さと鋭さとがあった。耳から入ってはうなじの辺りを震わせ、しんを撫でていくような。

 現れた少女は、琴を弾じる少女の傍らにやってくると、彼女に笑いかけ、何かを言った――。

  


 ……そんなことも、あったような気もする。否、あっただろうか?

 何か、不自然だ。だが、それが何か分からない。



 どこか高みから、二人の少女の様子を見ていた皓月だったが、次の瞬間には少女の姿で、歌っている己を意識した。

 妹の琴に合わせて歌っている内に、皓月の肩に青い羽根をした鳥が留まった。兎が足下くるくると飛び跳ねていた。かと思えば鹿や馬たちまでもがそわそわと近くにやってきた。妹は琴を奏でながら、はしゃいだような笑い声を漏らした。

 遠い記憶に、良く似た光景をみた覚えが無い訳ではない。

 けれども、何かが違う様な気もした。あの子は、こんな風に笑う子だったろうか……。

 ほら、と手を差し出すと、肩に留まっていた小鳥がその手に移動してきた。

 妹が、その小鳥に手を伸ばすと、小鳥は羽根をばたつかせた。驚いた彼女が小さく声を立てると、鳥はどこかへ飛んで行ってしまった。




 真白い壁の月光宮の廊を、三人の少女たちが、肩に弓を担いで笑み交わしながら駆けていく。その後ろから、少年が一人、駆けてきた。

 少女達は、幼い頃の自分と皞容、燕支だ。皓月の傍らを、白虎が駆けている。

一方、彼女達を追う少年は敬義である。皓月が十二、三才頃だろう。


「――小月様!! バレたら皇上のおとがめを受けますよ!?」

「母皇上は視察でお留守、師傅は自分の世界に引きこもり中。故に――そなたが言わねば何も問題はない!」

「――問題しかありません!!」


 少年は顔を青くした。


「全く口煩いな、阿肅あしゅく


 阿肅は敬義の小字幼名だ。当時は互いに小字で呼び交わしていた。


「――が居るんだから問題無い」


 口走った瞬間、くらりとした。

 己の白虎の名を口にしたのだろう。物静かな白虎の目が、皓月を見返した気がした。何かを訴えかけるような――。

 が、結局、その名は出てこない。出てこないままに皓月は話を続ける。


「心配ならそなたも来れば良い。ただし、お小言はなしだ。今の話し方、鄧宰相父君そっくりじゃないか。――あ、小辰!!」


 何人もの侍官と衛官を引き連れた少女・小辰――皦玲が、呼びかけに応じておっとりと振り返る。そのまろやかな頬は少女の幼さを示していたが、礼の所作は洗練されてお手本の様に完璧であった。形の良い巴旦杏アーモンド型の瞳は潤んだように煌めいて、じっと見つめられると、子どもながらに落ち着かない気分にさせられたものだった。


「姐姐。皆様も。……お出掛けですの?」

「うん。これからいつもの森で狩りをしに行くけど。小辰も行く?」

 

 皓月が己の白虎を撫でながら尋ねる。皦玲は、白虎に恐れをなしたように眉を下げた。


「あ、すまない」


 白虎を後ろに下げる。皦玲は大きな動物が苦手だ。その為、皓月や母たちの白虎のことも怖がっていた。


「――は賢いから、小辰に危害なんて加えない」

「ええ。ええ。わかってはいるのですけれども……」


 ふるふると小さく震えながら困ったような表情を浮かべる。この表情を見たら、誰もが、この姫君を全力で守らなければならない、本能的にそう思うだろう。そういう、不思議な引力のようなものが、彼女にはあった。


「折角のお誘いですが……わたくしでは、……皆様の足手まといになってしまいますし……。わたくし、怖うございます。大きな獣が現れたら、と思いますと……命を奪うのも可哀想ですし、恐ろしいですわ」

「小辰は、優しいな。わかった、じゃあ行ってくる。――あ、母皇上には内緒でね」


 予想通りの反応だったので、断られても特に気分を害することも無く、皓月は頷いた。皞容もそれに同意するように「だよねえ」と鷹揚に笑った一方、燕支は興味なさそうな表情のままだった。


「はい。わかりましたわ」




 音を立てて、仰々しい装飾の施された書状が落ちる。


「――そんな、」


 真っ青な顔色で絶望的な声を上げた皦玲の足もとに落ちた書状を拾い上げた。

 ああ、だ。すぐに思い当たった。母皇が皓月と皦玲を呼び出し、浩との同盟と、それに伴って皦玲を皇太子の妃とする話をした――。


「浩の皇太子に、皦玲を? ――ふざけたことを! 皦玲を浩になどとんでもない。母皇上。皦玲とわたくしは血を分けた唯一の姉妹。他の王族や颱の重臣になればこそ、――あの頑迷な浩など。文化も、生活も、制度も異なる、四方敵ばかりの異国の伏魔殿で、かように儚く嫋やかな皦玲が生きてゆけるとお思いですか。その上、かの国の女人の扱いといったら……断じて認める訳に参りません。第一、何故同盟など。我が国が浩と手を組まねばならぬ理由があるとでも?!」

「無論、必要と判断したためだ。だが、そこまで言うのならば皓月。そなたが浩へ往くか」


 母皇の圧倒的な――それでいて、冷然とした眼差しに射貫かれて、皓月は呼吸を忘れた。


「皇太子には皇太子の、皇子こうしには皇子としてなすべきことがある」

「――!! それは……しかし」

「非常に限定的ではあるが、皦玲を白虎の守護を受けた颱の皇女として婚姻を認めると言ってきている以上、それなりに待遇してくれはするであろう」

「――代わりにこちらもあちらを同格として認めた上ではあるがな」

「まさか……それを受け容れると?!」




 突如、目の前が真っ暗になった。


「――殿下、皇太子殿下」


 声を掛けられて、皓月ははっと顔を上げた。どうやら几案に突っ伏して軽く眠っていたらしい。


「こちらの決裁をお願い致します」


 ドサーっと音を立てながら積まれた書状を、皓月は唖然と見上げた。


「なんだこの書状の量は!? ――これは琥珀宮皇太子宮に回すようなものじゃないだろうが!!」

「皇上が、こちらに回すように、と」


 澄まし顔の官吏をぎりりと睨む。が、それ以上は何も言わず、諦めた様に筆を走らせる速度を上げた。


「――今日はまだ、敬義は来ていないのか?」

「は。そのようです」

「遅刻か? 珍しい……」


 あの頃、皓月は、敵国の皇太子と妹の婚礼を控えてピリピリしていた。


 たった二人きりの姉妹である。立場上、認めざるを得なかったが、それでも、あちらで皦玲がどんな扱いを受けるかと考えれば、気が気では無い。

 間諜を用いて、浩の様子を探らせるも、肝心の皇太子の情報が入ってこないのが、最大の憂慮だった。

 おまけに、皇太子は何年か前にも別の国の姫を一度娶っているが、幾何も無くして死んだときく。

 

 病死だというが、到底信用できない。

 

 風を切る音がして、皓月は顔を上げた。几案の上に暗器が刺さっている。そこに結びつけられた文を見て、皓月は小さく眉をひそめた。


「少し、出てくる……、行くぞ」


 部屋の隅で丸くなって居た白虎に声を掛ける。


「お供を……」

「要らぬ。そなたは、ここで書状を整理しておれ」


 言い捨てると、皓月は皇宮の、皦玲の居所・紗香宮しゃこうきゅうへ向かった。

 一心に歩きながら、一方で、皓月の歩みは鈍りそうにもなっていた。


 行ってはいけない、と。そう、心が叫んでいるような。


 突如、朝っぱらから紗香宮に現れた皇太子に、侍官達が慌てた様に出てきた。


「皇太子殿下。ご容赦を。只今皇子殿下はお休みで――」


 妙に慌てて足止めしようとする侍官達の様子に、皓月は片眉を上げた。


「我々は姉妹だ。何か問題でも?」


 言うや否や、皓月は皦玲の閨中寝室へと踏み入る。


「皦――」


 れい、と。名を呼ぶ声が途中で止まる。室内に満ちる香のにおい。くらくらするほどに甘い。

 帳の向こうに、身動ぐ陰が見える。嫌な予感がして、皓月は、その帳を乱暴に押し開けた。


「姐姐……ああ。どうか、お許しを……」


 しどけなく寝乱れた寝衣の襟元をかき合わせ、ただならぬ色香を匂わせて、顔色を青ざめさせながらも物憂げに皓月を見上げてきた皦玲。


 そして、その奧へ目をやって――皓月は顔色を変えた。


「――っ!! 、何をしている――!?」


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