第二十九

 息苦しさを感じて皓月は眼を開いた。が、相も変わらず、ただ暗闇ばかりである。


 また、夢を見ていた。

 まだ、夢の中で聴いた笛子の音が、耳の奥で遠く響いていた。

 たった今見てきたことは、実際にあったことだ、と皓月は漠然と悟っていた。皇太子が語っていた、賊に攫われ、軍に拾われた後の。

 そうして、また思い至る。夜毎に皇太子が奏でている、笛子の音。

 離宮では、多くの者が周家からの皇太子に対する攻撃の巻き添えを食って死したという。そうやって、皇太子を孤立に追い込んだ。そして、その毒牙は、乳母にも及んだ。


――あれは、そうして死した者達への挽歌鎮魂歌だった。

 

 そんなことに思いを致している内に、段々と意識がはっきりしてきた。その頬に、何かが落ちる。


「……?」


 頬に手を伸ばし、己の頬を濡らした、温かなに触れる。ぬるりとした感覚と鉄の匂いに、血だ、と気付いた皓月は身を起こそうとした。が、体が動かない。そうして、息苦しさの所以に思い至る。何かが、皓月の上から覆い被さっているのだ。その上で抱きしめられている。そう意識した途端、皇太子の辟邪香の香に気付く。


「き、……はく?」


 手探りで辺りを探れば、ゴツゴツとした岩の感触があった。

 不意に、遥か高みから、僅かに光が落ちてきた。

 冷えた光は、月の光と思われた。その光のお陰で、皓月は漸く状況に気付いた。

 辺りに幾つもの岩が落ちている。皓月が夢を見ている間に、落石があったのだろう。皇太子に庇われるような形で、皓月は地面に転がっているのだった。一方皇太子は、頭から血を流して気を失っているようであった。


「……き……はくっ!!」


 何とかその声だけを絞り出す。

 皇太子だったら、時間をおけば治る。だが、この時の皓月はすぐにそう思い至ることはできなかった。肩で息を吐きながら皇太子の下から這い出ようとする。


 だが、気を失っているのにもかかわらず、どうにも彼の腕は解けなかった。青龍の守護を持つ皇太子の力が強すぎるのか。或いは、それだけ皓月が弱っているか。そのどちらもか。

 

 兎も角、手当をしなくては、と己の白虎を呼ぼうとした。

 唇を開いた皓月だったが、声は出なかった。

 皓月の瞳が愕然と開かれる。


(……何……?)


 己の白虎の、名が。

 その記憶だけが何かに塗りつぶされたように思い出せないのだ。

 

 応じる気配もない。


「――どけっ!! 白虎の女!」


 衝撃に打ちひしがれている皓月を皇太子から引き剥がすようにして現れたのは、皇太子の青龍・浧湑だ。


「――だから離れるのは危険だと言ったのに!!」


 どうやら、皇太子に言われて、一時的に離れていたらしい。


「旣魄に近寄るな!! ――この疫病神……貴様のせいで……」


 銀の瞳を怒りで燃え上がらせながら、皓月を睨む。

 返す言葉がなかった。何が有ったのか、仔細は不明だが、皇太子がこれだけの大怪我を負ったのは、皓月のせいであることは明らかだ。


「そんな奴を、旣魄の傍にいさせておけるか。旣魄は俺が外へ連れて行く。貴様は貴様の白虎と一緒にここで死ねば良い――まあ、の話だが」

「――っ……勝手を、……言うな。浧湑」


 言いたい放題言ってすっきりしたような顔をした青龍の横面に、皇太子の声が響く。


「旣魄!! 気がついたのか」


 声に頷くと、楽な姿勢に座り直し、彼の頭を打ったと思しき岩に背を預ける。


「大声を出すな、……響く」


 指摘されて、青龍は少し慌てた様に口を押さえた。皇太子は皓月を見て、幾分弱く微笑んだ。


「ご心配をお掛けしました。少し、飛んでいたようです」


 言いながら、目元に垂れた血を手で拭おうとする。それを制して、皓月は手絹を取り出して代わりに拭った。ほんの少し驚いたようにこちらを見下ろしてくる皇太子の視線を感じながら、皓月は傷口を確認した。既に塞がり始めているらしく、新しく血がにじみ出してくる様子はない。


「ありがとうございます」

「いえ……」

「浧湑に辺りを探りに行ってもらっていたのですが――浧湑」


 礼を言った皇太子は、目覚めた直後の話が気になったのだろう、青龍に眼を向けて尋ねた。


「さっき言っていた、『呼べれば』とはどういう意味だ」

「言葉の通りだ。――その女、呪詛の影響で自分の白虎の名前を忘れてやがる。だから守護の力が使えない。名は魂同士を繋ぐ絆のようなもの。思い出せなければこのままだ」


 守護の力が使えないために毒を浄化することができず、毒気の毒にさいなまれているということか。


「名。……確か……“玲瓏れいろう”、と呼んでいらっしゃった様でしたが……」

「……」


 皓月は、ただ黙って首を振る。

“玲瓏”は、皓月ではなく、皦玲の白虎の名だ。

 皦玲を装うのに、白虎の名前も皦玲の白虎の名前を借りていただけだ。

 そうだということは分かるのに、肝心の白虎の名は出てこない。


。――わかってんだろ」


 皓月の内心を見透かしたような青龍の言葉に、ぎくりとして固まる。

 ――名を偽っていた上に、白虎の名も偽り。


 皓月は、言葉も無かった。

 

 皇太子は、皓月に自身の秘密を明かした。何度も助けられた。それなのに自分は皇太子に真実を黙っている。言える筈もない。この真実は、白日に曝されれば国をも巻き込む。


「まあ。白虎なぞ、いなくなったところで、どうでもいいが。――昔から白虎どもは残忍で、狡猾だ。昊朝が滅びたのも、颱祖が昊帝を弑逆したからだろうが」

「浧湑、」


 皇太子が咎めるような声を出す。

 浩では、昊朝の終焉を次のように伝える。


 浩祖を東巍脩とう・ぎしゅうという。彼は、颱祖・西白羅せい・はくらが主君である昊帝を裏切り、弑逆した上、黃龍の牙を鍛えて作ったという神剣を奪ったと証言した。故に、簒奪者が昊の後を継ぐ道理は無く、昊の御璽を継承した浩こそが昊の後を受けて天下をあずかるべきだと主張した。

 それに対し、颱祖は黃龍の神剣は神聖なものであり、決して奪うことは出来ぬ。神剣は病の為に短命で子も無かった昊帝から譲り受けたものであり、故に颱に義があると主張した。そして、玉璽は浩祖が混乱に乗じて盗んだものとした。


 両者の主張はひたすら平行線のまま、互いに一歩も引かず、数多の戦いがあった。

 一つの争いが、また新たな争いを呼び、多くの血が流れた。最も凄まじい戦いのあった時には、兵達の死体が幾重にも折り重なり、大江を紅く染め、その水を堰き止めるほどであったという。


 だが、その発端となった昊の終焉の理由について、正直、その当時ですら本当のところは分からない。時代を隔てた今となっては、確かめようもない。

 ただ、皓月の立場としては、颱祖の言葉を信じるべきだった。


 怒りと蔑みとが濃厚に滲む青龍の瞳を見上げた皓月の身が、ふわりと浮く。或いは、どこかへ引っ張られているような。


 後はただ、――落ちる。果てなき深みへ。

 

 皓月は、そろそろこの感覚に慣れて来ていた。

 

 重だるい体の感覚を手放す直前。妃、と慌てた様に呼ぶ声を聴いた。


   * * *


 またしても意識を失った妃に、旣魄は焦燥を覚えた。どんどん、意識を保っている時間の方が短くなってきている。声を掛けても反応はなく、熱は益々酷く上がってきたようで、時折苦しげな吐息が落ちる。


 このまま、この人は死んでしまうのではないだろうか。

 かつて旣魄の前を通り過ぎていった、数多の人々と同じように――。

 敢えて考えないようにしていた思いが湧き上がる。


「――妃、」


 旣魄は妃の事を一度も名で呼んだことはない。


 風皦玲。その名は、――そう、どこかで察していたのだ。

 颱の皇宮で、その“姉”という人と対面して、確信した。

 そして――。旣魄はチラリと妃の爪を見下ろし、遠くを見遣る。


 妃が、旣魄に必死に隠そうとしているのも承知していた。生来の性格や気質故か、妃は嘘や、隠し事は苦手のようだった。全く出来ないという訳でも無く、内容や、状況にもよるようだが。


 そこに滲む後ろめたさに気付かぬ旣魄ではない。


 皦玲という名ではないのならば、玲瓏という白虎の名も、違うのだろう。

 先程、浧湑の言葉に表情を硬くしていた。


 幼い頃から、数々の危険に見舞われた旣魄は、人の嘘や謀を見抜くのは得意だった。そうで無ければ、今、ここには居ない。死ぬことはなくとも、死んだ方が遥かに良いと思えるような苦境に陥っていたに違いない。


 妃の隠し事に気付きながらも、旣魄が追及せずにいたのは、旣魄も旣魄で、彼女に対して多く、隠し事をしていたから。その始めは、昏礼を始めとする諸々の儀式をすっぽかしもした。

 そう理屈をつけて、己の行動に理由付けをした。だが、そうやってわざわざ追及を避けた理由を探そうとしている時点で、既に手遅れだった。


――本当は、旣魄がすでに気付いていると知ったら、この人は、風のように、遠く去ってしまうのではないかと思っていたからだ、と。


 それを恐れた自分の心に思い至って、旣魄は小さく、息を呑んだ。

 既に何度も、妃には危機があった。けれども彼女は、旣魄の前で何度もその危機を回避し、またくぐり抜けてきた。


 笑顔さえ浮かべながら。不屈の眼差しで。

 その度に、知らず知らず、己はこの人に心を傾けていってしまったのだ。


 そして、そんな自分にどこかで気付いて、恐れてもいた。故に妃に自分の正体を明かした後は、敢えて避けていたのだ。


「……その身にかかる呪詛も、それ以外の面倒ごとも。全て私が何とでも致しますから。――どうか、私の手の届かない所にだけは、行かないでください……」


 絞り出すように、その言葉が漏れる。


(……自分は……)


 言葉にすれば、あまりにも明白な。

 何かを堪えるように眉を寄せた月虹の瞳に、鋭い光が過った。

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