第二十六
「……何をお話致しましょうか」
「離宮で過ごされていたと伺っておりましたが……先程のお話では、ずっとそこで過ごされたという訳でもないのですか」
これ以上、踏み込んではならない。以前、そんなことを思った筈なのに。
遠く鳴り響く警鐘を、頭の奧に聞きながらも、皓月は尋ねた。
「そうですね……。生まれてすぐ、母后が身罷り、父皇によって東の
「離宮での生活は、どうでしたか」
皓月が先を促すと、皇太子は少し言葉を切った。
「あまり、聞き心地のよい話ではありませんが」
言ってから、少し考え込むようにもう一度言葉を切った。
「差し支えのない範囲で構いません」
「貴女に隠し立てするようなことはございません。――聞いた話では、離宮へと隔離された私を、周貴妃とその父は幾度と無く、殺そうとしたようです。為に何度となく大怪我を負ったのですが、この通りの体質ですから、彼らの予想以上に、私はしぶとく生き残りました。――それが、却って彼らの鬼気を煽ったのかもしれません」
いくら殺そうとしても、第一皇子は死なない。
手口は次第に激しさを増し、人目を憚ることもなく、手段も選ばなくなった。巻き添えを食って、幾人もが命を失った。第一皇子の存在は公にされていなかった。離宮で相次いで人が亡くなるにつれ、人々は不審事の続く離宮を気味悪がり、そこへの配属を倦厭するようになる。口の硬い、優秀な者を集めることが段々難しくなる。
結果、離宮は人手不足に陥った。
離宮に仕える人々の数が日ごとに減っていることを、幼いながら彼は察していた。
だが、それが己の所為だろうと思えば、何も言えなかった。
ちょうどその頃、離宮を管理する者も変わった。後から思えば、その者も周家と密かに通じていたのだろう。そうして、正確な情報が、皇帝の元に届かなくなる。
既に第一皇子を狙う周家側は、彼自身を狙っても、意味が無いことに気が付いていた。故に、その周囲を狙った。そうやって、彼を孤立させようとしたのだった。
そして、その手は乳母である
“――夫人!”
皇太子の語る声に耳を澄ましていた皓月は、その声に重なるように、稚い声が、誰かを呼ばうのを、聞いた。
(――あの、声は――)
*
「……殿下……宜しゅうございますか……この、乳母の、話を、ようくお聞き、ください……」
一人の女人が、口から血を流しながら、震える唇で、その言葉を紡いだ。傍らにはひっくり返った杯から零れた液体が広がり続けている。毒の入った杯を、その女人が口にしたのかと思われた。
真摯な瞳は、その傍らで、彼女の手を取る少年に向けられていた。心からの慈愛と、少年を案じる悲痛の眼。
奧で、もう一人、少年が固い表情で黙り込んでいた。
「……今すぐ、この離宮をお出でください。この近くの
「――それがあれば、助かる?」
「ええ」
「すぐに行ってくる」
言うや否や立ち上がる少年に、女人が震える唇でさらに言葉を紡ぐ。
「――殿下」
「祁夫人?」
「……どうか、……殿下の笛の音を、どうか行く前に……」
「しかし、急がねば……」
「お願いします……様」
その眼は、端から見ても、既に己の死を受け容れた者の眼、だった。薬の話は、己の死を、目の前の少年達に見せたくないが為の方便だろう。一瞬間に、物思うように沈黙した少年もまた、それを悟っているように見えた。
「……わかった」
少年は懐から笛子を取り出し、構えた。指はたどたどしく縺れ、唇もまた、細かく揺れている。心の動揺を表すように、瞳には暗い色が揺れていた。それでは、当然、まともな音など出ない。
果たして、その音は、到底、楽にはなっていない。それなのに、何か、胸を突くものがあった。
それを眺めていた女人が、笑みを深めた。
「ああ。本当に、殿下の笛の音は、――素晴らしゅうございます。母君と、同じ――この身の苦痛までもが和らいでいくようです……」
「――なら、いくらでも吹く」
「ありがとうございます。……なれど、わたくしも疲れました。少し、休みます。行ってくださいまし――瀏児。殿下を、よくお守りするのですよ」
「はい……母上」
瀏児と呼ばれた少年は、目元を拭い、力強く頷いた。口を真一文字に結んで、何かを堪えるように眉を寄せて。
少年達は、互いに頷き合うと、夫人を振り返り振り返り、駆けていった。
二人の姿が完全に消えたことを確認した彼女は、大きく息を吐いた。
「すい、柳……、――どうか、殿下と、瀏児を、……お願い、……」
その目から、大粒の涙が幾筋も流れ落ち、眼を閉じる。
それきりその人は、もう動かなかった。
* * *
「やあ、
久方振りに、皇都・瑞耀の外城にある庶民街に所有している宅に戻ってきた瀏客は、主人用の椅子に堂々と座る人影に、眉をひそめた。
皇族特有の藍色の髪を高い位置で結い上げ、白い絹帯で簡単にまとめている。いつもならば、派手な、もとい、鮮やかな色合いの、玉や羽で飾った組紐を付けているのだが、謹慎中の身であることを考慮してのものかと思われた。見れば、身に着けている衣も、いつもより大分大人しい。
「ああ、特に気遣いは要らないよ。自分で持ってきたし」
などと言いながら、手酌していたらしき酒壺を、妙に誇らしげに押し出す。
「君も飲む?」
「結構です」
瀏客も、主である旣魄も、滅多に酒を飲まない――酔ってなどいられるほど、気の抜ける瞬間など、二人には殆どなかったからだ。特に、旣魄はもとがあまり酒に強くない。にも関わらず、昔、剣を教わった男から「酒が飲めねば士に非ず」と、死ぬ程飲まされたらしく、酒を飲むとその時のことを思い出すらしい。その為寧ろ、嫌ってさえいるようだった。それらしく振る舞うこともあるが、基本的には感情を表に出さず、忍耐強い質の旣魄が言うのだから余程の記憶なのだろう。
「ところで殿下、……陋宅に何用で?」
頭痛を覚えたように、瀏客はこめかみの辺りに手を当てた。
「君、皇太子殿下の師巫なんだから、皇太子宮に住まいを貰えば良かったのに。普通そうするだろう?なんだって皇都も
冗談めかして言うが、勿論尚王・水遜も、本当にそうだなどと思ってはいなかった。
浩制では、基本的に巫官は在職中、巫官が所属する承命宮内に居所を与えられ、そこに起居する義務がある。ただし、皇帝と皇太子がそれぞれ、一人ずつ指名することの出来る“師巫”という巫官はこの限りではない。皇帝の師巫は、三公の太師と区別して、国師と呼ばれる(注1)。その為、単に“師巫”とだけ称する場合は、皇太子の師巫である“太子師巫”を指す。“師巫”だけは、承命宮に住む義務が無い。というのも、皇帝や皇太子の個人的な相談役という立場故、急に呼び出しを受けることも多く、居所を主の近くに置く場合が多かったためである。とはいえ、近くに住まなければならないとも定められてはいない。
瀏客がそこに自宅を購入しようと思う、と報告したときも、旣魄はただ片眉を上げて「そうか」と頷いただけだった。
「――ここが気に入っております故。どうせ臣一人だけで暮らす賤屋ですので、広さがあっても管理しきれません。滅多に帰りませんし」
「そうなんだ。――で、兄上はどこに行ったの」
「……」
「とぼけたって無駄だよ。宮内にいらっしゃらないのは分かって居るからね。離宮にもいないし、ここにも居ない。おまけに、皇太子妃も居ない。仲良く揃ってお出掛け? ――颱の使臣団が来たのと関係があるんだろう?」
にこにこと微笑みながら、何でも無いことのように問う。尚王のこういうところが厄介だった。
「巫澂、私は兄上の敵じゃないよ。何かあったときに、知らなかったら対応が遅れるだろう。兄上にはしっかり皇位を継いで貰わないと。――じゃないと、私の自由がなくなってしまうからねえ! 私はのんびり悠々自適な親王生活の方が性に合ってるんだから」
軽やかに笑ってから、すいと水晶玉の如き眼を細めて瀏客を見る。瀏客は軽く溜息を吐いて口を開いた。元より、尚王には告げても良いと旣魄は瀏客に指示を出していたのだ。言い渋ったのはどちらかと言えば、瀏客が個人的に尚王のことを嫌っているからだった。
尚王は、瀏客の父母を死に追いやった周貴妃の子である。それだけでも嫌うに十分であるだろうが、尚王自身がやったわけでもなし、結果的に旣魄に協力したのだからその点については彼なりに折り合いを付けていた。故に、嫌いな理由はもっと単純である。
一言で言えば、ただもう、只管に合わないのである。
穏やかに振る舞ってはいるが、本来瀏客は、自分がなかなかにきつめの性格だという自覚がある。故に、自分を抑えるため、――延いては、無用な衝突を避けるため――敢えて穏やかに振る舞っているのである。
諦めて瀏客は口を開いた。
ことの次第を聞いた尚王は、腹を抱えるほどに笑った。
「兄上が……や、本当に……
一頻り笑った後、尚王は、遠くを見るように微笑んだ。
「はぁ、――嫂子がずっと、兄上の傍に居てくれると良いんだけど……祁瀏客。君もそう思うだろう?」
「皇太子殿下の御心のままに」
「……それにしても、第二皇女は凄く大人しい性格だって聞いてたけど、ほんと、噂って当てにならないね。いかに母君や姉君の圧が凄いからって、あの嫂子が彼女達の影で縮こまってそうには見えないけれども?」
含みのある言いように、瀏客は沈黙を通した。予想通りの反応だったのだろう、尚王は咎めなかった。
「あれが、大国の姫君の矜恃ってやつかな? といったって、うちの妹達を見て御覧よ。月とすっぽんもいいとこだよ?」
「……教育方針の違いではございませんか」
「そうだねえ。――でも、そうするとやっぱり、嫂子じゃないよねえ。まあ、しゃべり方も、体格も、声も全然違うと思ったけど」
「どういうことでございましょうか」
「例の事件についてだよ。――
「はい」
「私に、“この件は、人の仕業では無い”という者が居てね」
「それは――一体、何者ですか」
瀏客は眉を寄せた。元々鋭い目元が、怜悧な鋭さをいや増す。
「分からない。だけど、もしかしたら颱の巫が動いているのかもしれない。私にそれを告げた者は、浩の巫官が使うものとは違う香を纏っていた」
「颱巫、ですか? ――まさか。颱巫は非常に貴重な存在ですから、他国になどいる筈が、」
ございません、と言いかけて言葉を切る。現在、颱人は、皇太子宮に数十人居る。皇太子妃以下、侍妾たち、そして、彼女達が連れてきた侍官達が。その中に、颱巫が紛れているということか。
人外の者の仕業であれば、人とは異なる痕跡が残る筈であった。瀏客が直接見た訳ではないが、その可能性も勿論考慮に入れて、専門の巫官が現場を確認した筈であった。
複数の人間が関わった以上、手落ちが全く生じなかったとは言い切れない。
「浩の巫官の多くは、どちらかと言えば知識を司る学官であって、君のように、本格的に巫術を扱える者は少ない。逆に、颱において巫と呼ばれる存在は数が少ない代わりに、全員高い巫力を持つと言う。中には、還魂を使える者もいるとか?」
「……還魂ではなく、巫が行うのは招魂です」
瀏客は、些か強い語調で誤りを正した。
「――還魂と招魂(注2)って違うんだ?」
「言葉が異なる以上、当然、意味する所も異なります。その上、“招魂”は、颱と浩でも微妙に意味が異なります。そもそも颱巫と浩巫とは系統が異なります。浩は昊の遺制に多く倣い、巫術も多くは昊朝に仕えた者達が伝えたものであると申します。よく整理はされておりますが、それだけに、制度化の色合いが濃いのです。複雑で、習得が難しいものは多くが早い内に廃れてしまいました。一方の颱巫は、巫風の盛んであった南方の流れを汲むと聞きます。特に選ばれた者にしか承伝されず、それだけに古い形をよく留めているそうです。――話を戻しますが、“招魂”とは、浩では、何らかの理由で魄から遊離・離散した生者の魂を呼び寄せ、魄に戻す法として存在致します。颱巫もこの法は良く伝えておりますが、更に、亡魂を一時喚び顕すことも“招魂”と申すようです。一方、“還魂”は、
「となると、還魂の方が招魂より難しそうだけど」
「左様にございます」
「実際、そんなことできるの?」
水遜が尋ねると、瀏客はその瞳を鋭く細めた。
「還魂の法は、少なくとも浩には伝わっておりません。そもそも、人の領域で成すべきわざではございませぬ故。世の理に触れる所業にございます。四靈の玄武は
――――――――――――――――
【補足】
注1「師巫」……創作です。
「国師」は、割と華流ドラマやアニメで見かける言葉だと思います。調べてみると、割と多義語でして、「国軍」「国子祭酒(漢代以後の中国で,学政をつかさどる長官)」「僧侶の尊号」などのほか、「太師の異称」としての用法もありますが、ここでは別物ということで設定しております。
注2「招魂」「還魂」……どちらも実在する語彙で、意味もそれを参考にはしておりますが、その定義については、この世界でのものとご理解ください。なお、《巻一》で巫祥が用いた役鬼術とは別物です。
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