紀第五 繞風に愁声を聞く
第二十五
玄冥山の麓から更に北。北方の民族との
その城樓に、女が一人立っている。
星の光を溶かし込んだかのような銀の髪に、金緑の眼差し。皇太子を表す金の虎方冠(虎の姿を刻んだ角形の冠)に白い衣を纏ったその人は――颱国第二
夜通しの警備についていた兵士達は、その姿を見つけると、畏まった様に頭を下げた。その人が何者かを知らぬ者などいない。無論、兵士達は、彼女を皦玲ではなく、第一皇子の皓月だと認識しているのであったが。
常ならば、気さくに彼女の方から兵達に労いの声を掛けてくるのだったが、今のその人は、声を掛けることの憚られるような雰囲気を醸し出していた。
「――随分と、沈んだ顔をなさっておられる」
唐突に響いた声に、彼女の肩が小さく動く。ほんのわずかな跫音どころか、気配すら感じさせずに現れた男に、睨むような目を向ける。
女かと思うほどに艶やかな黒髪を、白玉を垂らした組紐で上だけ結い上げた優美な髪型。繊細な装飾が施された額飾りには濃い碧玉がはめ込まれている。その下からこちらを無感情に見つめる翠緑の瞳。
全てを、見通しているような。
「――
「無論。我が君を捜しに」
涼しい表情で、飄々と答えた男を、皦玲もまた、静かに見返した。
怒りさえ覚える程に。
己と良く似た魂を、そこに感じながら。
直接面と向かって確認したことは一度たりとも無かったけれども。皦玲は、目の前の男と己の間の血の繋がりを、見交わす眼の奥に感じていた。
宜王・高剣掃は、そんな皦玲の苛立ちや、
実際、怜悧なこの男は、皦玲のことを見透かしているのに違いなかった。
親が子を見る目にしては、余りにも分析的に過ぎ、冷淡に過ぎた。その態度は、彼女にとっての親とは、颱帝たるその人、ただ一人なのだと知らしめるようであった。
「殿下こそ、何故、斯様な場所にいらっしゃるか。皇上がご不在の今、皇宮をお守りになるべきでは?」
「宜王、……わたくしに指図するか」
声に、明瞭に険が滲む。一方、剣掃の片眉が跳ねる。
「……長年、手に入れたかったものを手に入れて、得意絶頂に有る方には見えませんね」
「……何を」
「ご自身が、何よりお分かりなのでは?」
「……」
「まあ、私にはどうでもよいことです。全て、皇上がお決めになったこと。お好きになさるが宜しい」
「――なにを、」
宜王の含みのある物言いに、柳眉を寄せた彼女を残して、剣掃は踵を返した。
皦玲の傍らに控える白虎を横切り、階段を下りていくところで、反対側から上ってきたのは、
敬義は、宜王のひどく冷めた眼を見上げて、ギクリとしたように固まった。
それは、皇太子に成り代わった皦玲に向けたものとも明らかに異なるものであった。
――何故お前はこうしてここに在り続けているのだ、と。
問われているような。
“――敬義、そなた――何と言うことを……!!”
“大罪を犯したという自覚があるのなら、二度とその
その瞳に、あの日の、
そのまま、跫音も無く去って行った。
「――行く」
呪縛されたように動けなくなっていた敬義は、皦玲の声に、はっと我に返る。
雨は早くも止んでいた。
「殿下。どちらへ」
「玄冥山」
ぎくりとする。玄冥山には今、皓月がいる。この二人が鉢合わせるのは避けるべきだ。
「しかし、玄冥山は危険です」
「わたくしは白虎の守護を持っている。毒気など恐るるに足りない」
「なれど……、お待ちください!! 殿下!!」
敬義の言葉に耳も貸すこともなく、白虎の背に上る。
その様子を見ていた白虎は、彼女と同じ、金緑の眼差しに哀色を漂わせて様子を窺う。
「行こう、
『……姫……』
声は、垂れ落ちた雨の雫ごと、大地へ散った。
* * *
「足下、お気を付けてください」
腕を引かれながら、皓月は覚束無い足取りで前へ進む。無明の闇の中、己を支える腕と、注意を促す声だけを頼りに。
底知れぬ墓室へと続く隧道をひたすらに進んでいるかのような感覚。一体どこへ向かっているのか、先の見えない暗闇は、皓月をしてさえ、そら恐ろしさを覚えさせた。
上がっていると思えば、また、下がっているように思われる時もあり、グニャグニャと曲がりくねった道もある。感覚は麻痺して、自分は今、本当に歩いているのだろうか、などとさえ思われる程だった。
おまけに、どういったものか、
疲労を覚えて荒く呼吸をすれば、肺腑が焼けるような気がした。故に、殊更に、呼吸を整えようと慎重に行くのだが、全く呼吸が安定しない。
自分の身に、何が起こっているのか。そして、これからどうなっていくのか。分からないことが苛立ちを募らせる。
ただ腕を引かれるままに歩いていた皓月が、幾度目か、意識が軽く遠のいたのを感じた時、ピタリと皇太子が足を止めた。
「……少し、お下がりを」
低く声がした直後、空気の震えで、彼が剣を振るったのを感じた。
鈍い音がした後、べしゃりと地面に何かが投げ出されるような音が次いで響く。
皓月は、肌で、闇の中に
「何――?」
思わず口走る。が、暗闇の中の何かと相対している皇太子は、それに応じる余裕はないようだった。ただ、空気の漏れるような音を聞いた。
「次から次へと。――面倒な」
直後、傍らに青龍が顕現して、洞内が明るくなる。まばゆさに視界を奪われつつも、その光を恐れて、数百、数千もの何かが、一斉に光の届かない影へと退いた、その残像が視界の端を掠めたような気がした。
そして、皓月と皇太子を取り囲むように落ちていたのは、無数の胴を切断された、涅色の蛇の死体だった。並外れて大きいという訳ではないが、決して小さくも無い。それが、洞内に無数に蠢いていたものの正体だった。全て、皇太子が斬り捨てたのだろう。ドロリとした血が流れて海を成し、皓月の足もとへも届こうかという状態だった。
青龍から発せられる靈力の光を受けて、蛇たちが畏れをなしたように去って行く。皓月は、別に蛇を恐れたりなどしないが、洞内にあふれる、数の暴力とも言うべき蛇の群れには流石にぞわりとした。
「――お前はぁっ! 何で! 俺を! 呼ばないんだ!?」
完全に蛇の群れが退いたことを確認したあと、人の姿に転じた青龍は、肩を怒らせながら皇太子に詰め寄った。
「
「――引きこもりは旣魄だろ!!」
(……似てないな……)
皓月の前で、旣魄の青龍が人の姿を取ったのは初めてだった。
似ていないどころか、ぴーぴーぎゃあぎゃあ喚き散らしている様を見るに、まるで正反対の雰囲気である。銀の双眸と、銀の髪ばかりが同じ色彩をしているようだ。皓月と、皓月の白虎も、人の姿を取ったときの顔立ちは似ているが、性格がそこまで似ている訳ではないので、そう不思議なことでも無いが。
(……なんだ?)
何か、違和感がした。
が、それが何か、ということは判然としない。
茫と、そんなことを皓月が考えている間も、青龍は口早にああだこうだ言っていたが、何かに気付いて、皇太子の左手を掴んだ。
「旣魄……お前」
言い掛けて、うっと息を詰める。切りそろえられた銀の髪が揺れる。浧湑が動揺を顔に滲ませたのは、鋭い目で皇太子が彼を睨んだからだが、皇太子の肩越しにそれを見ていた皓月は、それには気付かなかった。
「……対処法は分かっている」
「死んだのじゃ、意味ないぞ」
「……生きているのを探せば良い。あれだけ居たんだからな」
「で。探して来いって? ……仕方ねえな」
「……?」
何やら皇太子とこそこそと話をしていた青龍が、急に振り返って皓月を睨み付ける。と、直ぐにどこかへ言ってしまった。完全に青龍が姿を隠すと、途端にまた真っ暗闇になった。
「こういう狭いところで、浧湑を出したくなかったのですが。何しろあれは加減がききませんので」
そういえば、前もそんなことを言っていた。
確かに、皇太子と比べると大分大雑把そうである。
(否、黎駽を川に突っ込んだ時の振る舞いは大分……大雑把だったような……?)
「まあ、あれを見て逃げてくれる程度の可愛げはあったようですね。――驚かせてしまいましたね。汚れてしまいますから、許して下さい」
「?」
首を傾げる皓月を、彼の腕が抱え上げた。皓月は驚いたが、あの蛇の死体と血だらけの地面を歩きたいとは思わないのは確かだった。暗闇で、互いの姿が見えない事は、この状況により生じる羞恥の心を少し緩めたのも確かである。ただし、皇太子の方からは見えていると言うのを、皓月は失念しているのだったが。
微かに鼻先に、彼がいつも使っている辟邪香の、品良くも爽やかな香りがした。
その香りが持つ、辟邪の力の為であろうか。全身を蝕む苦痛が、僅かに緩んだような気がした。
そのまま進んでいくのだったが、いつまで経っても彼が下ろさない。流石に蛇たちの死体の山は遙かに通り過ぎただろう。不思議に思って尋ねた。
「おや、お気付きになりましたか?」
いたずらに気付かれた、とでも言わんばかりの笑い含みの声で返された。
「ありがとうございます。少し休んだので、未だ歩けます」
「そうですか。それは宜しゅうございました」
と、言いながらも、矢張り歩みを止める様子は無い。
「殿下?」
言うが、反応は無い。
「……旣魄?」
もう一度呼び直す。既に何度となく呼んで、呼び慣れて来たはずだったが、何故か妙に気恥ずかしいような気がした。
「如何なさいましたか?」
今度は直ぐに反応があった。どうやら呼び方だったらしい。と思うと、改めて羞恥がこみ上げた。
「もう下ろしていただいても……疲れるでしょう」
「ご遠慮なく。私がしたくてしているだけですから。……甲冑に武器まで持った男達を戦場から担いで戻ってくるのに比べたら、大したことはありませんよ」
冗談を言っているのかと思ったが、妙に実感のこもった言い方だ。
颱の武官には女人もいる上、金属を扱う技術が高いため、颱製の甲冑は非常に軽量で丈夫だとされる。その一方、男しかいない浩の軍で用いる甲冑の重量は相当だと聞く。それでも何とかなるのだろう。とはいえ、矢張り軽くて丈夫だというのは魅力なようで、今回の同盟では、颱の武具の提供も行われたと聞く。
「……そんなご経験が?」
「――昔のことですよ。素性を隠しておりましたが、この体質のお陰か、そこそこ重宝されましたのでね。そこで大分鍛えられましたよ。剣も教えてもらえましたしね」
さらりと言った声音は、いつも通り柔らかいものであったが、その意味するところに、皓月は思い当たって息を詰めた。
「どうかなさいましたか?」
「……いえ、」
皓月は、それだけをやっと吐き出した。
皇太子の来歴は、不明なところが多い。
離宮で暮らしていたとは聞くが、今匂わせた話から考えるに、それだけでは無いのだろう。皇太子の武功は、離宮でひっそりと暮らしているだけで身につくようなものではない。いかな天賦の才があろうと、いかに優れた師から剣法を授けられたとしても。数々の修羅場を切り抜け、生と死の狭間を凌いだ経験が無ければ。
一体、どれ程の日々を乗り越えて、ここへ至ったのか――。
「ああ。申し訳ございません。つまらぬ話を致しました」
皓月の表情に気付いて、皇太子は話題を変えようとしたらしかった。
「いえ、……もっと、話してください」
その両肩に降り掛かった日々を、月虹の瞳が見つめてきた日々を、皓月は思った。
初めて、思った。
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