第二十四(2024/7/23/23:23修正)

 押し潰さんばかりに降り注ぐ熱波に、目を眇める。

 香風が頬を撫ぜて、千里を駆けて抜けてゆく。


 己の身の丈を越す、優美な獣が傍に寄り添っていた。

 白い毛をそよがせて、吹き抜ける風に眼を細めて。

 日の光を受けて、眩い光をまき散らす、ふんわりとした毛並みをゆったりと撫でて頬を寄せる。

 

 けれど、唐突にそれが消える。


“――を、許すな”


 声に、見上げた己を見下ろした。

心臓を刺し貫くような、冷えた眼差し。


 直後、闇の底へと、為す術も無く投げ出された。


(――どうして)


 そんな言葉が浮かぶ。

 が、摂理に抗えず、身は只管に、背中から。

 深みへと、落ちていく。


 また、誰かの声が聞こえた。

 一人のものでは無い。


 女の声。男の声。高低様々の。若い声。老いた声。溌剌とした声。沈んだ声。怒号。哀鳴。苦悶。


 様々な感情いろに染まった声が、耳朶を、はだえを、全身を打つ。


 それらが通り過ぎて、底から、あるいは身の内から湧き上がってくるような冷気に、思わず身を震わせた。

 無明の闇の中に、一人立ち尽くして、ぬっと背後に、慣れた気配を感じた。


「――! どこへ行っていたんだ……」


 その白い毛並みに顔を埋めて、咎めるような声を出す。

 応じる声がない。不審を覚えて、顔を上げる。

 が、それは濃い影に覆われて、よく見えない。


「……、?」


 戸惑いに、その名を唇に乗せる。だが、その言葉は、声にならないまま、息だけがただ零れた。


  *


「――こんな状態の人を放っていくのは義に反する。況してや彼女は、私の妃。尚更放っておくことなどできない。その上、こうなったのは私に責任がある。あの巫師は、私に用があるようだ」

「そもそもここに来ることになったのもこの女のせいだろうが」


 落ち着いた声と、苛立ちも露わな誰かの声が、膜を張ったような意識の向こうから聞こえてきていた。


「だが、それを選択したのは私だ」


 眼を開いたのだろうが、はっきりとはしなかった。うっすらとした輪郭が、辛うじて見えるか、見えないか。その間を揺蕩う無明の闇。その中では、夢と現の境も判然としない。


 朦朧とした意識のまま、皓月は身動きもせず、声も発せずにいた。

 奧から湧き上がるように悪寒がして、ぶるりと震えた肩に触れる、温かな存在を感じていた。特に疑問は感じなかった。物心ついてから、皓月には常に傍に寄り添う存在がいた。その発想や思考が、人のそれとは大きく異なるけれども、却って、それが心地良かった。


 だが、今、皓月が感じている温かさは、それとは違うような気がした。違和を感じた瞬間、今やすっかり慣れてしまった辟邪香の香りがして、一気に覚醒した。


「き……はく……?」

「お気づきですか?」


 声が掠れて、枯れ落ちた木の葉のような声しか出なかった。


「飲めますか?」


水筩すいとうを差し出してきたらしいが、暗いせいか、よく見えず、手が空を彷徨う。それを見て、皇太子は皓月の口元にそれを移動させた。それで漸く皓月は漸く手探りで受け取って、こくりと嚥下した。思った以上に喉が渇いていたようだ。


「お加減はいかがですか」

「まあ、何とか」


 間髪入れずに答えたが、正直悪寒はするし、頭は痛いし、良く分からないだるさを全身に感じていた。そして、何より。

 

 何かが欠けてしまったような、強烈な違和感があった。


「そうですか……」


 一段低くなった声は、皓月の虚勢を見抜いているようでひやりとした。それをごまかすように、「あの二人は?」と尋ねる。


「先程の二人からは離れて、今は、隧道の中です。術か、何かだと思うのですが、入ってきた入り口が塞がってしまったようです」

「……閉じ込められた、と、……言う事、です……か?」

「奧にはまだ道がありますから。この先、もっと広い空間に繋がっているようです。別の出口があるかも知れません。外へ出られたら、一度山を下りましょう」

「それは……」

「あの巫師に、妙な術を仕掛けられたのでしょう。お体の不調もその為でございましょう。まずは、その術を解くのが先です。それに――毒気のこともありますし、先程の黎駽殿を御覧になったでしょう」


 水は、黎駽には反応しなかった。ただ泥だらけになっただけだ。

 皓月を襲ったあの時のように、蛇の如く、意思を持って動く気配はなかった。条件が違ったから、という可能性もあるが。母帝が姿を消したことも考えれば、あれは白虎の守護をもつ者を狙ったものではないかと思われた。皇太子が言いたいのは、そういうことだろう。


「しかし。あの巫師の様子では、こちらから探さずとも、あちらから現れる――」


 のでは、と続けようとして、はっとする。

 押し殺した――それ故に、却って烈しい怒りの気配に。


「だからこそ、です。貴女をこれ以上、危険な眼に遭わせる訳には参りません」


 静かながら、いつになく断乎とした声だった。


「巻き込んでしまって……、申し訳ございません」

「共に行くことを選んだのは私ですから」


 言うと、怒りの気配は鳴りを潜めた。


 この先の道が、出口に続いていると決まった訳ではない。ここに留まっている限り、事態が動く事は無いだろう。ならば、少しでも進んで母帝の手掛かりを探した方が良いに決まっている。あとは、流れに任せよう。


「……ならば、参りましょう……まだ、うごけ、ます」

「……辛いときには、私に掴まって下さいね」


 皇太子の声に頷きながら、皓月は、無明の隧道の更に奧へと足を踏み出した。





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