第二十三(2024/7/26/22:11修正)

臾屢ユル師!! お前、何をした!?」

「やれやれ。手間を増やしましたな。あの方々を見失ってしまったではありませぬか」


 衣を軽く払った巫師の胸ぐらを、黎駽れいけんが掴み上げる。小柄な巫師の体は、軽々地面を離れてしまう。


「何をした、と訊いている」

「――ちょっとした術を施しただけにございます」


 玄い面を揺らし、そう笑い含みに答える。


「ちょっとした風に見えなかったから言ってるんだろうが」

「――なんと、つまらぬことを。大国である颱を相手に、我らの宿願を成就するには、小事に拘ってなどおられますまい」


 黒洞々とした深淵の如き瞳と、面の奧の、葡萄色の瞳がぶつかり合う。


「……はくとは、何だ」

「……魄一族の話は、軽々しく口にしてはならぬのですよ。先程はつい、うっかりしてしまいました」


 険を滲ませた黎駽を見た巫師は、彼をいなすように、短く、付け足した。


「されど、いずれ分かることでしょう」


   * * *


 荒く呼吸を繰り返す妃を抱えて、旣魄きはくは文字通り、飛ぶように走った。途中、雨がポツポツ降り始めた。雨に濡れれば体力が奪われる。適当な所で休んだ方が良いだろう。


 黎駽達から十分に距離が取れたと思ったところで、近くに洞穴のようになっているところを見つけた。


 と、言うよりも、唐突に目の前の岸壁が、口を開いたようにも思われた。一瞬前には、無かった筈だった。不思議を感じながら、旣魄はあまり迷わず、中へと入った。

 

 普段の旣魄だったら、こう地震が繰り返し起こっている状況で、敢えて中に入ろうとはしなかっただろう。いつ崩れるかも分からない、危うい場である。が、この時は、何かに導かれるような感覚があった。


 少し歩いたところで、また地面が震えた。

 立っていられないほどの激しい揺れに、身を低くして堪える。


「――!?」


 前後するように、小さな石や砂が落ちてきて、己の斗篷がいとうを掲げて、妃にかからないよう庇った。熱風が一瞬背中を走っていったかと思うと、以前にも嗅いだ酷い悪臭がして、眉を寄せた。


 しばらくして、揺れが収まったことを確認して立ち上がった。籠もった臭気で、却って気分が悪くなりそうだった。

 入ってきた方へと引き返し、程なくして再び眉を寄せた。


 入り口が、無くなっていたのだ。


 先程の揺れで崩落したのとは違う。土砂が崩れているのでも無く、岩などで塞がれているのでも無く。まるで最初からそこに入り口など無かったかのように、周囲と変わらぬ岩壁が続くばかり。文字通り“無くなった”と表現するよりない。


 何かの意思、あるいは意図を感じる。


 音さえも飲み込む、無明の闇の奥へと誘われているような。

 けれども、不思議と悪いもののようには思われなかった。その為、旣魄はさして慌てなかった。


 それよりも、今は妃の容態の方が心配であった。

 

「殿下。……殿下。――妃」


 この間、旣魄は彼女を抱えたままである。この暗闇の中、離れてしまったら、そのままどこかへ消えて仕舞いそうな、そんな気がした。


 もう一度、口の中で妃と呼びさして、言葉を引っ込める。

 水の柱に囚われた彼女を見た時と、同じようなもどかしさを感じたからだ。


 あまり動かしてもよくないだろうと思い、旣魄は適当な場所を見つけて一度腰を下ろした。衣が揺れて、腕に抱えた妃の纏う、月来香の甘やかな香りが儚く香る。と同時に、この人はこんなに小さかっただろうかとふと思う。男女の体格差はあれど、ここまでとは今まで気付かなかった。


 生命力に溢れた金緑の瞳と、生まれながらに人の上に立つべき者の纏う存在感。それが、今は鳴りを潜めている。彼女を苦しめている、“何か”のせいなのだろう。


 そうこうする内に、震えだしたので確認してみれば、熱が出ているようだった。


 自分の斗篷がいとうを羽織らせて、薬を飲ませた方が良いか思案する。毒が効かないと言っていた。すると、薬も効かないのではないだろうか。


 そんなことを考えていた旣魄に、妃が急にしっかりと抱きついてきた。と、胸元に頬を寄せて、ほっと息を吐いて、苦しげながらも、小さく微笑む。


 周囲は真っ暗だが、一際夜目の利く旣魄には、勿論はっきり見えていた。無言のまま、旣魄は小さく眼を見開いて固まった。


 こんな風に遠慮無く、妃が自分から旣魄に触れてきたことなどない。

 熱と悪寒のせいだろう。きっと。否、間違いなく。


 ほんの少しの息苦しさを感じながら、斗篷ごとその肩を抱き返す。


 少しして、冷静さを取り戻した旣魄は、ふと違和感がして、己に無防備に身を寄せる妃を見下ろした。


(……これは、……なんというか……)


 獣の毛並みに顔を埋めて、それを堪能しているような仕草に見えなくも無い。

 

 白虎と間違えられているのではないか。


 そう思い至ると同時に、とても微妙な気持ちになった。そして、何故かほんの少しだけ、苛っとした。


――守護という形で、魂で結びついている霊獣は、絶対に裏切ること無く、命運を共にする、最も信頼できる存在である。先程彼女が浮かべた、安心しきった微笑みも、自分では無く、白虎に向けられたものと悟ったからだと、この時の旣魄は未だ思い至っていない。


「……旣魄」


 辛抱に辛抱を重ねたような低音で、己の名を呼ぶ声が響いた。と、同時に、肩に重みを感じる。


「何だ――浧湑えいしょ


 確認するまでもなく、己の青龍・浧湑である。険しい表情で旣魄の肩を掴み、口を開く。


「ここは気が良くない。今は平気だとしても、長い時間いたらどうなるか分からない。早く出た方が良い」


 時折鼻腔を掠める悪臭に辟易とはしたが、旣魄はここに入ってきてから、不思議と体が軽くなってきたような気がしていた。


「だがお前、妃を乗せてくれるのか?」


 戻るにしても、意識の戻らない妃の白虎を呼んで運んでもらうということは出来なさそうだった。


「誰が白虎の女を乗せるか。絶対嫌だ。放っておけば良いだろう。どうせ簡単には死なん。忌々しいことにな」


 案の定な言いように、旣魄は溜息を吐いた。


「……ならば仕方ない」


 正直、妃の容態を考えれば、さっさとこの場を離れた方が良いに決まっている。

 ただ、巫師がどのような術を施したかが分からない以上、離れても無駄である可能性もある。


「旣魄。お前、なんでこんな女に構う」

「赤の他人であったとしても、こんな状態の人を放っていくのは義に反する。況してや彼女は、私の妃。尚更放っておくことなどできない。その上、こうなったのは私に責任がある。あの巫師は、私に用があるようだ」


 彼女を苦しめているのは、あの巫師が放った、なにがしかの術であろう。


 あの時、妃は何かを投げていた。多少巫術の心得のある程度の既魄にも、そうと察せられる程に強い辟邪の気を纏っていた。巫師が放った術に対抗する手段として取った行動であろう。


 黎駽との交戦に気を取られていたとはいえ、旣魄もあの巫師が何か仕掛けようとしているのには気付いていた。

 予想外だったのは、その矛先が、妃に向いたことである。

 旣魄もまた、巫師の狙いは、あの瞬間、自分だと思っていたのだ。だから、術がこちらへ向かってきた時にも、落ち着いていた。


 旣魄が普段身に纏っている辟邪香は、旣魄と瀏客の師が特別に作ったものである。


 かつて最年少で太巫となった経歴をもつ、実力を持った師の力を込めた辟邪香は、大抵の術を弾く。それを知らなかった妃は、旣魄に危害が及ぶと思い、それを阻止しようと、懐から出した包みをこちらへ投げたのだろう。


 一切の躊躇無く。

 

 旣魄を完全には信用、ましてや信頼もしていないだろうに。


 しかし、旣魄と妃の予想を裏切って、術は妃を襲った。

 もっと言えば、巫師の行動には、黎駽も驚いていたようであったが。


「そもそもここに来ることになったのもこの女のせいだろうが」

「だが、それを選択したのは私だ」


 間髪入れずに返せば、浧湑はただでさえ切れ上がっている鋭い目尻をさらに吊り上げた。


 色々言いたいことはありそうだったが、言葉としては出てこないようだった。元々、気性は荒いが、無口な方である。説得は無駄だと悟ったのだろう。ぷいとそっぽを向いたかと思えば、闇に融けるようにして、消えた。


 こう言う場合、術を解く方法としては、術者自身に解呪させるか、術者以上の腕を持つ術者が術を返すか、そして、もう一つ。術者を殺すか、である。旣魄が取れる一番簡単な方法は、言うまでもなく三つ目の方法だ。脅して解呪させるという方法も無くはないが、素直に解呪するかどうか。


 瀏客と共に、師からもう少し真面目に巫術を習っておけばよかったと、今更ながら後悔した。ありとあらゆる分野の知識を貪欲に学んできた旣魄だが、その分野だけは基礎的な所だけで、それ以上踏み込まなかった。それは、瀏客の領分だと。


 何かが壊れたような、狂気を孕んだ巫師の声が、唐突に脳裏に蘇る。


“――魄の生き残りがまだこの地にいようとは。それも――とは! 何たる幸運。何たる僥倖。あなた様はご自身の幸運に感謝すべきしょう、な”


 あの巫師も、旣魄を見て、“魄”という言葉を口走っていた。あの、意味深な言いよう。明らかに何かを知って居る風だった。


 あの巫師に、いずれにせよ、もう一度会わねばなるまい。ただ、巫師と黎駽、二人を同時に相手をするのは骨が折れる。巫師が何を仕掛けてくるか分からないのが何よりも厄介である。そしてその間、妃の安全は確保しなければならない。ならばやはり、妃だけでも一度山を下ろした方が確実だろう。


 旣魄は改めて、出口を求めて歩き始めた。

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