第二十一

 室の中には豊かな茶と、古い書物の墨の匂いが満ちていた。年を刻んだ木目の美しい、黄花梨においしたんの卓子と揃いの圏椅に腰掛けたその人は、おや、と小さく声を立てて笑い、ゆったりと顔を上げる。


「そなたから我に声を掛けてくるとは。――何ぞ、気になることでもあったか」


 静かな瞳が、虚空を見つめる。僅かに首を傾げ、声ならぬ声に耳を澄ませているような仕草をとる。


「――は出来そうなのか? ――ふむ。まあ、そうであろうな」


 その人の肩に留まった鳥が、主の言葉を解しているかのように、黒々とした目でジッと見つめ、時々確認するように頷く。


「不用意に草を打って蛇を驚かさぬよう。――まあ、そなたには要らぬ忠告かの」


 軽い溜息と共に吐き出された言葉は、床に吸い込まれるようにして、沁み落ちた。

 

 虚空を仰のいて、もう聞こえなくなった声の残滓を追うように視線を彷徨わせる。

 脳裏に、白銀の髪に揺れていた、藍色の花が過る。


 青龍の“気”に満ちた――。


 紫羅藍の瞳が、遠くを見つめて揺らぐ。が、奧からにじみ出したように冷えた色彩が、その揺らぎを凍てつかせてしまった。


   * * *


 翌日。玄冥山に戻ってきた皓月達は、敬義の元に月靈をやって、状況の確認をしてきてもらった。事前に確認していた敬義の待機場所は、境界付近で盧梟と睨み合いを続ける兵達が控えている場所からは少し離れてはいるものの、どこで皓月の顔を見知った者と会うとも分からない。皓月が居るという情報を知る者は、最小限に抑えておいた方が良い。


 明るい日の下で見る玄冥山は、まるで元からそうだったかのように、痩せて枯れ落ちた木々の残骸と、大小の石ばかりが目立つ兀山と化していた。皇宮に行く前、皓月達が見たとおり、玻璃の割れるような大音声が響いたかと思うと、あっという間にこのような姿になってしまったのだという。


 敬義以外に山に入った者は、未だ戻っていないとのことだった。恐らく、皓月達が見た様に、どこかで倒れてそのまま死んだか、動けなくなっているのだろう。皓月が山を下りるように敬義に言ってから、新たに山に入った者は、少なくとも颱側には居ない。盧梟の者はこの限りではなかろうが。ただ、黎駽に付いていた盧梟の巫師は、何かしら毒気について知って居る風の口ぶりだった。とするならば、血気盛んな盧梟側の者も、立ち入りは控えることだろう。


 皓月を閉口させた臭気は、大分薄くはなっていたが、それでも思い出したように時折鼻腔を掠めた。


「大丈夫ですか?」


 盛大に顔を顰めた皓月に、皇太子が訪ねた。


「……まあ、匂いが酷いだけで。朝のお茶の効果でしょう。旣魄は大丈夫ですか」

「お茶。……朝に貴女が煎れて下さった、あの? 確かに昨日に比べると随分楽ですが」

「師傅が昨日下さったものです。効果覿面ですね」


 皇太子には、今朝、食事の時に幽寂から渡された清瑤靈果茶を飲んでもらっていた。

 この山の毒気は、皓月には他の毒同様、匂いが酷いこと以外の害は無い。これは、皓月の場合、お茶の効果というよりは、白虎の守護のお陰だが。


「お茶だけで、ここまで違うものですか……? というか、それは本当に、ただのお茶ですか?」

「――あまり深く考えない方がいいですよ。悪いものでないことだけは確かですので、そういうものと受け止めておくのがよいです」


といいながらも、皓月は脳裏に意味深な師の笑みを思い出していた。幽寂は何も言わなかったが、恐らく、師は玄冥山について何か知っていた。魄一族についても。魄の一族であるという父を、幽寂は以前から知っているようであった、と宜王も言っていたからには確実に。

 しかし、皓月に対してのそらとぼけた話しぶりから察するに、幽寂にはそれについて、話す気がない。少なくとも現段階においては。「知りたければ自分で探れ」ということだろう。

 その一方で、清瑤靈果茶を渡してきた。それにも、勿論意味があると思われた。さらりと師が告げてきた名前を考えると、とんでもないもののような気がする。が、謎の多い師のこととて、深く考えないことにしておく。

 平然とした顔をしていたし、もともと色白なのもあって顔色からはわかりにくかったが、この山の毒気は、皇太子にとってはそれなりの脅威になり得るものだったようだ。思えば、毒気の匂いと、先日の斟の儀で草木を枯らした神水に混ざっていた匂いが同じものならば不思議は無い。


 辺りの様子を窺っていた皇太子が、徐ろに傍らの枯れ草に目を留めて、白い指先を伸ばす。青みを帯びた銀の光が、指先を伝って草へと注がれる。と、カサついた葉の残骸を柔らかに押し上げ、青青とした芽が根本から生じ、見る間に伸びて真珠のように真ん丸な蕾が現れたかと思えば忽ち開いて藤紫色の可憐な花を咲かせた。



 皓月は、皇太子が贈ってきた花に、明らかに季節外れのものが含まれていた理由を理解した。否、もしかして、と思っては居たのだ。

 青龍の掌る木気は、発展と成長を掌る。今、皓月の髪を彩っている藍色の梗草も、皇太子が贈ってきたのを、宮女達が嬉々として飾ってきたものだ。それなりに時間が経っているのに、生花にも関わらず瑞々しさを保ち、色あせることも無く保たれている。それは、木気に溢れた浩の皇宮で生育されたものである以上に、皇太子が、自身の青龍の守護の力によって咲かせたものだったからなのだろう。


「――随分、可愛らしい能力もあるのですね」


 言うと、振り向いた皇太子は僅かに恥ずかしそうに微笑んだ。その綺麗な微笑みと、可憐な花が妙に似合っていて、思わず真顔になる。正直、皓月よりも似合っている気がする。


「以前、推恩に教えて貰ったのです。私は目の前ある芽や種から植物を生やすことは出来ますが、推恩は、何も無くとも、この世に存在する植物であれば、大抵のものは生やせるそうですよ」

「尚王殿下……意外と凄い方だったんですね」


 つまりそれは、稀少な薬草の類もぽこぽこ生じさせられるということではないのだろうか。


「頭にお花が咲いていそうな御方だと思っておりましたが、本当に生やせるなんて……」


 尚王の持つ能力の可能性について思案しながら零した皓月の言葉に、皇太子が声を立てて笑った。いつも声を立てず、品良く微笑むだけの皇太子には珍しい反応だった。


「私が現れる迄は、推恩が皇太子となるのを疑う者は誰一人無かったでしょう。それほど、推恩の能力は傑出しておりましたから。今は……あのように振る舞っては」

 

 おりますが、と続けようとした皇太子の言葉が途切れる。


「――駄目ですね」


 たった今花開いたばかりの花が、瞬く間に周囲の草花と同じく黒変して枯れ落ちてしまう。


「土か、水か、或いはその両方が良くないのでしょう」

「予測していたのですか?」


 驚いた様子も無く、ただ手を離した皇太子に尋ねる。


「……昨晩、瀏客と水鏡で話したのですが。玄武の神像に残った術の痕跡は、浩の巫官が用いるものとは異質なもので、詳しいことは分からないそうです」

「あの玄武廟の水源は」

「瀏如宮の背後に聳える臻命山しんめいざんに源を発するといいます」

「さすがに、この山というわけがありませんね。距離がありすぎますし」

「もし玄冥山で生じた毒気の溶けだした水が瀏如宮の玄武廟に影響を及ぼしたというのならば、両者の間の地域に何か問題が生じていてもおかしくはありません。私が把握している限りでは、浩ではそのような問題は生じておりません」

「颱側でも聞いたことはございません。……母皇が秘して居なければ、ですが。範囲を考えれば、難しいでしょうね」

「斟の儀では、貴女の力で事なきを得たと伺いました」

「……そうでしたね」


 試しに、今枯れ落ちた花に触れて、金気を注ぎ込んでみる。気の滞りをほぐすように、淀んで滞っている気の路を通してやる。


「これでどうでしょう」


 再度、皇太子が木気を注ぎ込む。先程同様、生気を取り戻して花が再生する。そのまま観察していたが、再度枯れ落ちる様子はない。


「暫く保ちそうですね。――毒気に金気が有効なのでしたら、少なくとも、颱帝が毒気に害されるということは無いと考えてよさそうですね」

「そうですね」

「――毒気のみならず、もしや、他の毒も効かないのでは?」


 皓月は軽く目を見開いて皇太子を見上げた。


「――ああ。矢張りそうなのですね」


 余りにも分かり易すぎる反応をしてしまったと思った時にはもう遅い。


「それで、春栄殿では毒味役の死者が絶えなかったのに、貴女の宮では一人の死者も無かったのですね」


 春栄殿とは、皓月と共に東宮に入った侍妾達が暮らす宮殿である。彼女達は、身分は高い颱の士族或いは公族の出身者だが、いずれも白虎の守護は持ってはいない。


「ええ。ですから、――私を殺したくなった時には、毒を使っても無駄ですよ」


 自棄になって口走った皓月は、そのまま背を向ける。


「それは、――宜しゅうございました」


 自らの失態に苛立っていた皓月は、どこか痛切な色を帯びた声でそう言った皇太子が、何を思い、どんな表情をしてその言葉を発したのかを見ていなかった。

 ただ、柔らかな声音が普段と違うことを訝しんで、彼をそっと見上げた。

 だが、その時には、既に彼は普段通りの微笑である。


「気になるのは、貴女を飲み込んだ水の柱ですね。何かお気付きのことが?」

「確証はありません。ただ、母帝上を襲ったのは、同じものだったように思うのです」


 皇太子は、ほんの少しだけ柳眉を顰めた。


「つまり、水に問題、或いは異変が?」

「そんな気がします」


 頷いた皓月の耳に、矢が風を切る音が飛び込んできた。

 皇太子が軽く身を翻し、無駄のない動きで飛んできた矢を剣で叩き落とした。


「――また会ったなあ、小虎」


 人の気配が近づいてきたと思ったら、前方から現れたのは、黎駽とその巫師だった。


「また、そなた等か……昨日の今日で、ご苦労なことだな」


 眉を寄せた皓月を見遣る黎駽の目から遮るように、両者の間に、皇太子が立った。


「旣魄?」

「――殿下、これは斬っても?」

「こ、“これ”って……てめえ……」

「別に構い……わない。二度も刃を向けてきた相手」


 物騒な言葉と裏腹に、爽やかな笑顔で言い放った皇太子に面食らって、思わず普段の調子で返しかけて言い直す。気をつけなければ。


「ついでに、確認してみましょう」


 声を抑えて言った皇太子に「何を?」と聞き返そうとした皓月だったが、彼は既に黎駽に集中していた。軽い雰囲気だが、黎駽の腕は決して侮れるものではない。正体を隠している手前、青龍の守護の力は使わずに相手をするならば尚更だ。下手に声を掛けない方が良いと判断して皓月は下がった。




――――――――――――――

【補足】

皓月が髪に飾っている「梗草こうそう」とは、「桔梗きつこう」の古い言い方です。


皓月には毒は効かないとはいえ、贈り物とする以上、「毒とか大丈夫かな? 触れるとかぶれるのとかあったっけかな」とかふと思ったのですが。

もしあったにしても、きっと、どうにかして抜いているのだと思います(汗)








  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る