第二十

 石造りの堂内はひんやりとした空気が漂っていた。慎重に歩を進める跫音と、空気の僅かに震える音が微かに響くばかりで、それ以外の物音は一切ない。


 石棺に収められた遺体に被せられたぬのを、小柄な影が躊躇無く捲り挙げる。まずは、目元を覆う冪目べきもくにほんの少しだけ触れたかと思うと、大胆な手つきで衣を捲る。誰もが思わず眉をひそめてしまうような、心臓を抜き取られた無残な痕が露わになる。


 よく見ようとしてか、或いは別の理由か。僅かに顔を疵口に近づける。


「……ふうん」

 思慮深げに落ちた声は微かながら高く、明らかに女の声である。


「――誰かな。こんなところに忍び込むなんて」


 背後から突如響いた声にも、影は慌てることは無かった。

 声音こそ軽い。が、背に注がれる視線は侮りを許さぬ鋭さを孕んでいる。

 対する影は、振り返りもせずに口を開く。

 

「あなたこそ、こんな時間に、こんなところに、どんな御用事」

「皇族としてはおろか、士としての葬礼も許されぬ罪人とは言え、一応その子のお兄ちゃんだからね」

「あら、尚王殿下。今更兄として振る舞うのですわね」


 挑発的な言葉ではあるが、声音は淡々としている。皮肉ろうとしているというよりも、ただ思ったまま口にしたような。


 石棺に安置された遺体は、先刻皇帝の毒殺を目論んだとして拘束され、調査によって罪が確定する前に何者かに殺された窈王である。尚王――水遜すい•そんは、兄皇太子の命で、皇宮中を震撼させている一連の事件を密かに調査していた。密かに、というのは、尚王は弟や母、おまけに皇太子妃を殺そうとした尚王妃の罪を受けて、表向きは謹慎中の身だからだ。


 周貴妃の実の子であり、本来、皇太子と皇位を争う立場にありながら、却って遜は皇太子と組んで母・周貴妃の罪を明らかにし、弟・窈王の企みを潰した。周貴妃一派はさぞ肝を潰したことだろう。得体の知れない皇太子より、日頃から音楽に耽溺し、へらへらとした尚王の方が、都合が良いと考える官吏達は多かっただろうから。


 なお、尚王の妃との不貞がきっかけで、怒り狂った自身の妃に刺された恭王は、辺境の地への安置となった。安置というのは、任地から出てはならぬという、緩やかな謹慎処分である。なお、刺した方の恭王妃と、宮中で付け火をした尚王妃は、どちらも見張りを付けての追放処分となった。本来ならば死罪も十分に考えられたが。そうしなかったのは、彼らもまた、周貴妃に振り回された側であるという意識が兄皇太子にあるからかと思われた。

 ただ、当時、兄は皇太子妃を殺しかけた尚王妃に対し、かなり怒っているようにも見えたのだが。


 尚王の方の謹慎は、あくまで表向きだけであるため、遜の元には兄皇太子・水適すい•せきから事件の調査以外にも、次々と指示が飛んできていた。


(本当に、兄上は人使いが荒い)


 などと思いながらも、兄皇太子が普段、遜が任されている何倍もの仕事を一人でこなしていることを知っているので、強く言うことは出来ないのだが。


「何よりも、この遺体はまだ調査中だからね。下手に弄れば罪に問われる」

「この件は、あなたの手には余りますわよ」


 影はちらりと、遺体を見遣る。


「……死のにおいが致しますわ」

「それは致し方ないよ。こうして冷やしていたって、限度がある」

「死体の臭いじゃありませんわ。わたくしが言っているのは、この――」


 そこで一度、影は言葉を切る。

 一瞬、完全に音が消える。


黄泉こうせんのにおいですわ。――犯人は、人ではございません」

「――!」


 軽く息を呑んだ遜の横をするりと通り過ぎ、「巫澂とかいう巫官に遺体を調べさせた方が宜しいですわ」と言い残して、去っていった。

 話し方はおっとりとしているのに、動きは猫のように俊敏だ。呼び止める間もなく、影は既に跡形もない。


 微かに残った匂いは、皇太子妃が日頃から纏っている香に、どこか似ている気がした。


――――――――――

 書きそびれていた、前回の事件に関連する人々の「その後」に軽く触れてみました。久々の尚王登場です。


 尚王と話していたのは誰でしょうね?


 そして、あまりにも登場回数が少ないので忘れられていそうな皇太子の名前……(水適)。皇太子本人の意識としては既魄の方が強いし、皓月もそう呼んでるし……。


 次回は皓月と皇太子の方に戻ります!(多分) 


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