紀第四 無明の道往き

第十九

「懐かしい香りに誘われて出てきてみれば。――なぜそなたから月来香の香りがする」


 颱の皇太女たるを示す金の虎方冠から垂れる黒い絹帯が、さらりと音を立てて翻る。静かな金緑の瞳に、一瞬、炎が揺らめいたような気がした。

 わざわざ妃が髪型を変えたのは、今、目の前に立つこの人に合わせたのだろう。確かに良く似ている。

 颱の皇太女宮・琥珀宮こはくきゅうの主。

 その名と言えば、風皓月ということになっている。

 「皓月」とは、「白く清らかに照り映える月」を表す名だが、……目の前の人物は、月というよりも星という方がしっくりくる。


(……寧ろ……)


 月も星も、どちらも夜の空を彩るもので、欠ければ大層味気ないことであろうが。


 何度となく抱きかかえた為に、妃の衣の香りが移ったのだろう。とはいえ、それなりに距離があるのにも関わらずそれを嗅ぎ取った嗅覚の鋭さはやはり、颱の皇族なればこそか。


「もう一度訊くわ。そなたは、誰?」


 黙ったままの旣魄に、皇太女が再度尋ねてくる。


「……答えないのなら」


 急に声が低くなる。


「――侵入者として排除する」


 言い放った瞬間、雰囲気までもがガラリと変わった。別の人間が、彼女の中で目を覚ましたかのような変わりようだった。

 風が、頬を裂く。目の前にその姿が迫り、再び風が襲いかかる。


「――!」

「――貴様!! 旣魄に何しやがる!!」


 旣魄の影から突然怒鳴り声を上げながら飛び出してきた銀髪銀目の青年に、皇太女は驚いたように飛びすさった。その背後に、銀髪に金緑の瞳の青年が現れる。儚げな風情だが、気配から彼女の白虎だと知れた。

 皇太女の武名は国の内外に轟いている。中でも刀剣遣いとして名高い。実際、腰には女人が扱うには些か無骨過ぎる直刀を佩いている。

 恐らく、皇太女の佩刀として有名な古今の名刀・“冰暉”であろう。だが、旣魄に次々に風で攻撃してくる割に、刀を抜く気配はない。が、繰り出される風も、身ごなしも、想像以上の迅さだ。

 とはいえ、仮にここで皇太女を傷つけたりしたら、流石に問題である。振り切るより無い。


「構うな!!」


 旣魄は、逆方向に身を翻した。


   * * *


「……来ているな」


 皇太子と分かれ、衛士達を引き付けるようにして走る皓月は、小さく嘆息した。

 あんまり大所帯で来られても、他の警備が手薄になるから、喜ばしい事ではない。そろそろ、皇太子もここを離れた頃だろう。などと考えながら走っていると、ぐにゃりという感覚が足裏にあった。

 「ぐっ」とかいう声が聞こえた気がして、皓月が足を止めてそれを見た。


「……我を踏んづけた不届き者は誰ぞ!?」


 起き上がるなりそう言い放った、その姿。


「……師傅?」


 年齢不詳の麗しい顔に、ゆるりと垂れる黒髪が艶めかしく、髪の一部分だけを紫羅藍しらあい色の大麗の簪で留め、紅い紐を垂らしている。紛れもなく、皓月の師、太子師傅・幽寂ゆうじゃくだった。

 その簪の花と同じ色の瞳が皓月を認めると、驚きに小さく見開かれた。


「小月、……そなた、何故ここに? 浩の皇太子に嫁いだのでは?」


 空気に融けゆくようなその声は高くもなく低くも無く、その人独特の色香を放ちながらゆったりと響く。

 皇宮の屋根の上で寝ているのだから、何でここに、はお互い様なのだが、神出鬼没のこの人にそれを訊いたところで、意味のある答えなど返ってこない。


「――まさか、そなた。もう出もど」

「出戻ってません!!」


 大変憐れみの籠もった表情で言われ、思わず強く否定した。が、すぐに追われていることを思い出す。


「ん? ――追われておるのか」

「はい」

「――つかまりなさい」


 師が差し出した、しなやかに白いその手を、躊躇なく取る。

 次の瞬間には皓月は、皇都郊外にある、師の邸の院子に立っていた。


「――ほら、こちらに掛けて。茶でも飲みなさい」


 状況を把握するのに辺りを見回していた皓月の前で、宙をふよふよと彷徨いながら茶壺が舞い、卓子の上の茶杯に茶を注ぐと、茶杯のすぐ傍に落ち着いた。いかなる術をつかっているのかは知らないが、師の周りでこういったことが起こるのは日常茶飯事なので特に驚くことは無い。


 とろりと蜜の滴るような桃の甘さと瑞々しさ。そして鼻腔を駆け抜けていく爽やかさと透明な味わい。仙桃の花や葉から作られたのだと師は嘯いているが、それも斯くやという味わいは、何処を探しても、ここでしか飲めないものである。


 皓月のお茶好きは、この師譲りだった。“茶仙”と自ら称する程に茶を好む師からは常に、薫り高い茶の香りがした。学問から武術、四靈との付き合い方に至るまで、皓月は一切をこの人から学んだ。性格には色々難はあるが、皓月はなんだかんだ言いながらも、美しいものを愛するこの美しい師を慕っていた。


 ただし、何者かは知らない。


 皓月の父母とも古い付き合いらしいから、そこそこの年齢ではあろうが、白桃のような肌は赤子のように瑞々しく、老いを全く感じさせない。ついでに言えば、男か女かもわからない。どちらかと言えば男性のように見える日もあれば、どちらかといえば女性のように見える日もある。気になった時期もない訳ではないが、尊敬する師には変わらない。


「そなたが浩に立った折は、会うこと叶わなかったからの。いずれ会いに行こうと思っておったが……斯うして偶然にもまた会えて嬉しいよ」

「わたくしも、師傅にお会い出来て嬉しく思います」

「それはそうと、浩に行って香を変えたのかと思ったが。――違うな。……移り香を漂わせるとは、そなたも大人になったね。中々趣味も悪くない」

「――! ……し、師傅」


 顔を赤らめた皓月に、ふふ、と艶麗に笑い返された。


「それで、小月。あんなところで如何したというのだ」


 皓月は、母帝が行方不明になったことや玄冥山でのこと、そして玄冥山について皇宮秘庫に入って調べたことなどをかいつまんで話した。


「ふうん。魄ねえ……我もその名を聴いたのは随分久しい。……それで、秘庫で何か見つかったかえ」

「母帝上が残して言ったらしき覚え書きと、石版や地理書等から、昊が滅んで以来、魄の人々が玄冥山に逃れて隠れ住んでいたのが、三十年前に“毒気”なるものが山で発生して人々を害したと。……あとは、魄の詩がいくつか見つかった程度ですね」


 言いながら、皓月はちらりと幽寂の表情を窺った。幽寂に確認したいことがあったのだ。


「詩か。そなた、詩こそ最も純粋なる人の心の哀歓の顕れに違いない。人は古来より、詩によって様々の知識を得、人の心を識り、自身の心を奮い起こしたものだ。わざわざ石にまで刻まれて残されたものならば、尚更であろう。見ない手はなかろうに」

「あっ……」

「昔、そなたに教えたはずだがの」

「あ~。ええと……今! 今、思い出しました!」

「……まあよい」


 皓月は苦笑いした。だが、その石版を見たのは幸いにして、皓月ではなく皇太子だ。皓月にはまず、あの石版の字を読むことさえ出来なかったのだから、そこから何かを酌み取ることなど無理な話だ。だが、あの博覧強記の皇太子ならば、何かしら掴んだものは有ったのでは無いだろうか。また、もしそうで無くとも、内容は頭に入っていそうである。


「ありがとうございます。師傅。わたくしはそろそろ参ります」


 幽寂に確認したいことはあったのだが、表情から窺うに、恐らく答えはもらえないだろう。長年の付き合いである。過ごした時間なら忙しい母帝よりも、断然、幽寂の方が長い。皓月のことを、幽寂は良く理解しているが、皓月もまた、幽寂の気質についてはよく知っていた。


「そうか。いずれ今度は、我からそなたを訪おう。それまで達者でな」

「はい。先生もお元気で」

「ああ。そうだ、この清瑤靈果茶を持ってお行き。これ位なら邪魔にはなるまい。茶とは言え、桃は邪気を払う故。――お前を守ってくれよう」


 手渡された包みを受け取ると、その手ごと、師の白く長い手が包み込んだ。


「……気を付けての」

「ありがとうございます」


 言うや否や、またその姿が遠ざかる。否、遠ざかっているのは、正確には皓月だろう。瞬きすると、目の前に見覚えのある銀の光が飛び込んできた。


「!」


 どうやら、師が術で皇太子の元まで飛ばしてくれたらしい。

 皇太子に突進する勢いで突如顕れた皓月を、彼は驚きつつも、危なげなく受け止めた。


「――遅いので心配しておりました。ご無事なようで、安心致しました」

「お待たせして申し訳ございません。途中、師に出くわしまして」

「何だか嬉しそうな表情をしていらっしゃるのはそれでですね」

「……はい。国を出てくるとき、挨拶が出来なかったのが、心残りでしたので」

「そうですか。ならば良かった。――そういえば、私もここに来る途中で、あなたの姉君に出くわしましたよ」


 皇太子の言葉に、皓月は絶句した。


「あなたを待っていらっしゃったようでしたが。私しか居なかったのにお怒りになったようです」


 そういえば、彼の頬の辺りにうっすらと切り傷がある。分かれる前には無かった。

 まさか、皦玲が切ったのだろうか……? 皓月の知る皦玲には考えられない。


「……それで……」

「貴女の姉君と戦う訳にも参りませんし。特に用もありませんでしたから、撒いてきました」

「……それだけですか?」

「ええ、それだけです」


 皓月の様子に、皇太子は首を傾げてその意を伺う姿勢を見せたが、皓月は首を横に振った。


「……いえ、姉が申し訳ございません」


 皓月が手巾を出して、その頬を傷からうっすら流れる血を拭う。


「ああ……忘れておりました。ありがとうございます」


 既に血は止まっている。どころか、殆ど塞がっているようだった。


「四靈の力なのか、それとも別の理由があるのか、傷を負ってもすぐ治るのです。ですからご心配には及びません」


 それで皓月は、以前にも皇太子が同じ言葉を言っていたことを思い出した。

 第四皇子の窈王と戦った時だ。あのときにも「すぐ治る」と言っていた。


「だからと、粗雑に扱う理由にはならないでしょう。心配しない理由にもなりません。……折角、綺麗な顔をしているのですから」


 言ってから、皓月は口元を押さえた。最後の一言は、心の中だけで言ったつもりが、声になって出ていた。

 そろりと皇太子を見上げれば、少し驚いたように目を瞬かせていた。それから、いつもとは少し違う、複雑げな笑みを浮かべた。


「……ありがとうございます。――お待ちしている間に、宿を探しておきましたので。一先ず休みましょう」


 頷いて皓月は、皇太子に付いて歩き始めた。

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