第十八
玄冥山を下り、適当な所で身を清め、食事を取ったあと、皓月と皇太子は颱の皇宮近くまでやってきた。月光に照らされて浮かび上がる白亜の宮殿を遠目に眺めて、懐かしさに小さく溜息を落とす。
「――ちょうど良い頃合いです。行きましょう」
皓月配下である慎がよく使っていた隠し通路の一つを使って中へと入る。
「私が先に進みます。あちこちに罠がありますから、壁には極力触れないよう、に……」
皓月は途中で言葉を切った。上背のある皇太子が立つと、天井の高さがギリギリ足りるか足りないと言ったところか。
「……頭、大丈夫ですか?」
「……少々、違う意味に聞こえなくもないですが。ギリギリ何とか」
「では、行きましょう」
右へ左へ、複雑に入り組んでいるが、ここからなら、秘庫の扉の近くまで、人目を避けて抜けられるのである。ただし、この通路を間違えずに進めれば、だが。正しくない道には無数の罠が仕掛けられている。
念のため、と、皓月は左手の人差し指にはめた銀の指環を確認した。月来香を象ったそれには、暗器が仕込まれている。手先の器用な師から何年か前、誕生日に貰ったものである。軽く眠って貰うのにはちょうど良いだろう。
どうにかこうにか目当ての地点に到達して、皓月は皇太子を振り返った。
「ここで少し待っていてください。合図をしたら来てくださいね」
皓月は気配を窺い、天井板を外す。燭台の火が幽かに揺らめき、長い影を地面に落としている。慎重に確認して、皓月の記憶通りの配置であることにまずほっと息を吐く。
そして、――動いた。
音も無く降り立ち、一気に駆ける。
「?! 何も――」
入り口で警備に当たっていた衛士が直ぐに反応したが、その瞬間には皓月は彼らの背後に回り込んでいる。誰何の声も終わらぬ内に、二人を昏倒させてしまった。
柱に寄りかかるように一先ず座らせておく。遠目には怠けて座り込んでいる様に見えるだろう。運の悪い彼らの為に、見つからないことを祈るばかりである。
皇太子に合図を送って、来たところを確認したあと、扉を開けて中へ入る。何の変哲も無い、白い壁の部屋である。
皓月はそのまま真っ直ぐ進んでいく。
「……ここまで来て今更ですが、私が入ってしまって大丈夫ですか?」
「大丈夫だと断言はしきれませんが、まあ、大丈夫でしょう。この秘庫は、入り方を知ったところで、白虎の守護が無ければ入れませんので」
白い扉を見上げる。曾て、一度母帝に連れて来られたときに、この扉の仕掛けを教えてもらったことがあった。といっても、解き方が分かるだけで、仕組みはさっぱり分からないが。この手の込みようから、作ったのは皓月の師である幽寂先生だろうと思われた。
解錠には、金気を独特の方法で巡らし、錠に施されている装置を震わせてやる必要がある。これは皓月には簡単なことだ。これがうまくいくと、表の扉が開き、内扉が開く。白虎を模した彫像の下部に、さも意味ありげに四角柱状の石が三本ずつ上下二列に並んでいる。面によって、中央が赤く塗られている。易に使う算木、いや算石というべきか。坤為地の卦である。
この操作が必要かに見せておいて、これは囮である。決してこれは弄ってはならない。動かせば、それに隠されている毒針で絶命する。勿論、白虎の守護を持つ皓月の場合、弄ったところでちょっと指を怪我する程度だが。
が、本当の鍵は、この白虎の像の台座の後ろにある。手探りに引き戸を開け、中の玉を回転させる。
「え~と、確か……」
この玉を定められた手順通りに回すと、天井が動いて、暗い室内に月光が射し込む。
すると、床にぼんやりと陣が浮かび上がった。
「陣の中に入って下さい――
隠形している月靈に声を掛ける。皓月の手が自然と動き、その掌の先から球形の光がふわりと床に落ちると、途端に床を這うように幾つにも枝分かれして進み、陣をなぞる。
一瞬、強い光が柱の様に立ち上がり、全身が地面に引っ張られる。
「――!」
かと思えば、急に投げ出されて、皓月は着地する。
無事、秘庫の中に入れたようであった。前回、仕掛けを母皇から教えてもらった時には、中までは入らなかった。入ったのは、これが始めてだ。
周りを見渡せば、文書や宝物が所狭しと収められているのが目に入る。
それも、奥までずっと続いている。想像以上だ。
これほど広大な庫を隠していたとは。驚きを通り越して、いっそ呆れるほどだ。
「これは見事ですね」
皇太子が呟いた。とくに書物の山の辺りを見て。なんだかその目が輝いているような気がした。
中央に、豪奢な文机が用意されている。何気なく目をやった皓月は、その上に、片付けないで放置されたままの石版に目を留めた。
「なんでしょうこれは」
皓月がそれをのぞき込んでみると、見たことの無い記号のようなものが並んでいる。文字のようでは有るが。
「……これは……あなたが先日仰っていた、魄に関する資料のようですね」
「読めるのですか?」
「……の、ようですね?」
皇太子自身も、釈然としない表情で首を傾げて答える。
「と言いますと……?」
「ここに書いてある字は、私も、初めて見る文字です。けれども書いていることはなんとなくわかるのです」
その傍らに、地理書が置かれている。こちらは颱の言葉で書かれているため、皓月にも読めた。
それと、皇太子が目を落としている石版とを交互に見て、皓月は眉を寄せて息を吐いた。……やられた。
ドン、と音を立てて、拳で文机を叩く。
「どうされましたか?」
「……少し、苛立ちを抑えたくて」
「……」
苦笑いした皇太子の表情の云わんとすることは十分に分かっていたが、皓月はそれに言い返す言葉がみつからない。抑えられていない自覚は、あった。ゴゴゴゴゴ……と背景に背負った暗雲から、いまにも雷でも落ちそうな気色である。
「……母皇上は、最初から、わたくしがここに来ることを予測していたようです」
これ見よがしに皓月が必要としそうなものを、ご丁寧にわかりやすいところに出しておいてくださるとは、なんともありがたい話である。ありがたすぎて涙が出る。母帝の高笑いが、皓月の頭の奧で谺するようだった。
皓月を、掌の上で弄んでくる母の言葉まで脳内に聞こえてくる。
“おお、月児。ほんに、純でわかりやすい、かわゆい子じゃのう。まだこの母の後を追い慕うか。ほほほ……”
荒く息を吐いた皓月は、母が残していったらしき書物を見下ろす。
母は、こうなることを予測していたに違いない。
自分の身に起こることも。皓月が動く事も。
その意図は、どこにあるのだろう。
母ならば、皇太子のことも知っていたに違いない。
皓月の母の“風読み”の能力は歴代でも類を見ないほどに精密で、“千里眼”と言われる程。皓月も多少の風読みはできるが、母の足下にも及ばない。
十代で即位した母は、この力で以て、皓月の母は颱をさらに強くし、潤した。
一体、何処まで見えているのか――。そう、よく思う。
皓月が浩へ行く事も。皦玲が皓月の代わりに皇太子になることも。
或いは、……。
――思考が逸れたことに気付いて、首を振ってその考えを追い払う。だが今は、それについて云々する時ではない。
「その石版には、何が書かれているのです」
「魄の民の来源のようです。これによると、彼らは、玄武の守護する地の果て、今でいう廬梟の地の背後に広がる永久凍土、大寒凜連峰を越えてやってきたそうです」
かつて存在した昊という国は、大陸を支配したが、大陸の北方、玄武の地の果ての更にその先、大寒凜連峰と呼ばれている険峻な山々を越えた向こう側がどうなっているかを知る者はいない。一説には、所謂理想的な“
「――彼らは月の女神を崇拝し、身に銀を帯び、昊とは異なる言葉を話し、異なる文字を操り、様々な術を操った。過酷な環境に耐えかねて南し、安住の地を求めた、とあります――書いてあるのは、そんなところです」
「探せば、魄に関する資料は、まだあるやもしれませんね」
が、時間は限られている。だが、この蔵書の数。到底見尽くせまい。
「――そうですね。ですがまずは、玄冥山の毒気について、手がかりを探しましょう」
「宜しいのですか?」
「元より、その為に来たのですから。――そちらには何か書かれていますか」
石版とともに置かれていた書物をめくる。が、めぼしい記述はない。一般的なことが書いてあるだけだ。パラパラと捲った拍子に、間に挟まれていた紙がはらりと落ちた。
母の字だった。大分紙が古びているので、昔書いた覚え書きのようである。
「……どうやら、玄冥山のことと、魄の件は、切り離せないもののようですね――ご覧下さい」
その紙を皇太子に渡す。
そこには、昊の滅亡と相前後して、魄の民は玄冥山に逃れ、以来そこにひっそりと身を隠して住んだと書かれている。
魄の文書は、昊の滅亡の頃に抹消され、他との交流を絶った。この頃に、魄の人々は歴史上から姿を消した。そして、長い年月をかけて、全く知られなくなったのだろう。
母の字を辿っていくと、30年前に玄冥山に、「毒気」が発生し、次々と魄人が謎の死を遂げた。これで元より数の減っていた魄は滅び、僅かな生き残りは大陸中に四散したとある。
その生き残りこそが、皇太子の母であり、皓月の父であったのだろう。
が、これだけでは、次々と魄の者達を死に至らしめたという「毒気」が何か良く分からない。
「もう少し、探してみましょう」
「そうですね……」
あのとき。
山が震えて、悪臭が漂った。そして、皓月達が発見した遺体。割れた昊……。山から見上げていた時には、まさに九天そのものが裂けてしまったのかと思われたが、離れて見てみれば、山を覆っていた“何か”が割れたのだった。……あれは……、隠す為のものだったのか、あるいは。
そして、あの“におい”……。
「――思い出しました。あの匂い、斟の儀の時の水に混じっていた匂いです」
「斟の儀、」
浩の皇帝に命じられ、北の離宮・瀏如宮に赴いた時、霊木に注ぐために斟んだ神水の異状に気付いたのは皓月だった。
「……ああ、そういえばあの時の巫澂はあなたではなかったのでしたね。羽厳になりすましていたんでしたっけ」
言えば、彼は苦笑いをした。
玄冥山付近は開国当初から颱の地ということになっている。そして、代々、禁足の地とされていた。颱の代々の皇帝は、魄の存在を知り、隠そうとしていたのかもしれない。その理由は何であろうか。
考えながらも、更に幾つもの書物に当たってみたが、それ以上の情報はなさそうだった。
「分かったのは、毒気が生じたのは30年ほど前から。人を死に至らしめることが出来るほどのものであること。原因は不明で、対処法はその場を離れる以外は不明なこと。そして、その毒気は、何らかの形で瀏如宮の玄武像にも影響を与えたこと。――気になることはまだ有りますが、そろそろ参りましょう」
声を掛けると、思った以上に奧で返事がした。
覗いてみると、机上の石版と似たような石版が並べられている界隈があった。
「何か分かりましたか」
「これらも同じような文字で書かれていますが、――どうやら、魄の
石版を元に戻し、二人は外へ出た。
* * *
妃の後に付いて、旣魄は元来た道を引き返し、隠し通路を抜けて、屋根の上へ出た。案外と、自分の視線のより上というのは見ないもので、行きは見つからなかったのだが、帰り道、目端の利くものが巡視していたらしい。見とがめられて、二手に分かれた。
東の方向へ進んだ旣魄は、目の前に誰かが立っているのを見て、足を止めた。
「なぜ――」
言い掛けて、口を噤む。声に、その人がこちらを振り返った。
銀の髪に金緑の瞳。金の冠に同じく金の額飾り。
一瞬目に入ったその面差しは、ついさっき、自分とは反対方向に走っていった妃のそれと、良く似ていた。
月夜に浮かび上がるような、白く絢爛たる装束が、柔らかに風を孕んで揺れている。が、服装という見た目の違い以上に、雰囲気がまるで違う。
「ここで待っていれば、……会えるかと思ったのだけれど」
旣魄の雰囲気が、さっと硬質なものに変わる。
真珠の粉をまぶしたように白い肌を、月華が濡らしていた。
「……そなたは、何者?」
鈴を鳴らすような声が、旣魄にそう問うた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます