第十七

 山道を引き返そうと歩き始めた皓月の頭に、皇太子が無言で自身の斗篷がいとうを被せてきた。


「旣魄? 汚れてしまいます」


 見上げた皇太子は、一瞬、不可解な目で皓月を見下ろしていたのだったが、すぐに例の如く微笑んだ。


「もう日は落ちましたし。冷えると良くありません。被っていて下さい」

「……ありがとうございます」


 息を吐いた皓月の目の前が、不意にゆらいだ。


「……?……」


 ピシ、ピシ、ピシ……、と耳慣れない音が響く。

 どこから音が響いているのか、辺りを見回すが、判然としない。


「――上です」


 硬い声で言った皇太子の目が、鋭く天を睨んでいた。その視線の先を追った皓月の目に、信じられないものが目に飛び込んできた。

 紺碧色の天に、玻璃の砕けたような亀裂が走っている。


「……は?」


 音を立てながら、その亀裂は更に広がっていく。

 と、同時に、周りに漂う臭気が、また一段、強くなった。吐き気を覚える程の臭気に、眩暈がした。


『――伏せろ!!』


 切羽詰まった月靈の声が響いた。白虎が、二人の頭上に顕現した。


 直後、音を立てて、天が崩れた。

 流星のようにそらの破片が降り注ぐ。


 常ならばあり得ないことだったが、何故か動けなくなって、半ば呆然とそれを見上げていた皓月は、伸びてきた腕に、半ば引き倒されるようにして漸く身を伏せた。

 背後で、月靈の霊力が巻き起こす風を感じながら、皓月はまだどこか、夢と現との間を行ったり来たりしているような感覚がしていた。


「……収まったようですね」


 どれ程時間が経ったのか、皇太子の声がごく近くから聞こえた。それから身動いで立ち上がる気配がした。皓月も立ち上がる。


「お怪我はありませんか?」

「ええ。旣魄は?」

「私も特に、は……?」


 疑うような目でじろじろと皇太子を見た皓月に、彼は問うような目を寄越した。


「あなたは怪我をしていても平気で大丈夫だと言うからです」

「……本当に大丈夫、ですよ?」

「……そのようですね」

「あなたの白虎殿のお陰ですね」

「怪我が無いのなら良いのです。――!」

 

 そう言って皇太子の肩越しにその奧に生えている木々を見つめた皓月の目が鋭く細められる。


 先程まで繁っていた木々が、黒ずんで痩せて枝ばかりの目立つ干尸のように、一瞬で様変わりしていたのである。花も草も悉く枯れ落ち、萎び落ち、黒ずんで尋常でない様子を見せていた。空ばかりが、何事も無かったかのように、洗われたような月が耿耿と照っている。が、月が明るいだけに、落ちる陰は一層、濃い。


 これらは、たった今、一瞬で枯れ落ちたようにも、元よりこうだったようにも見えた。まるで、何かに覆われ、隠れていたものが、その覆いを取り払われて、突如正体を露わにしたかのような――有り様だった。


 皇太子も、何か物思う様に辺りを見回していたが、首を振って口を開いた。

 

「兎に角、一度山を下りて考えましょう」

「……そうですね」


 母皇を探さねばと、気持ちは急くが、母皇の白虎の気配がたどれない以上、闇雲に探した所で見つからないだろう。


「ここは青龍を呼ぶには些か手狭ですから、少し移動しましょう」

「わかりました」


 先程より臭気は薄まったようだが、ずっとその余韻が鼻腔の奧に残って居るような気がして不快だ。全身泥水に濡れているのもある。今すぐこの汚れた衣を脱いで沐浴して、さっぱりとした衣服に着替えたい。


 近くを流れる河で身を清めたかったのだが、先程の件の後では、水に近づく気がしない。大体、少なくも、この山の水では、却って汚れてしまうに違いない。……などと考えていた皓月は、あることに気付いて足を止めた。


 先程の毒気の臭気が強烈過ぎた為に鼻がおかしくなったのかと思ったが、この泥水自体もにおいがすることに気付いたのだ。


 しかも、嗅いだことがある匂いだ。

 

 だが、どこでだったろう。


 考え込む皓月の前を迷い無く進む皇太子の歩みは淀みなく、昼間に歩いているのと然程変わりない。適宜歩きやすいように道をならしてくれているので、その後を歩く分には大した負担もない。などと思っていると、皇太子がくるりと振り向いた。


「……人が倒れております」

 

 えっと目をこらしてみる。確かに一際濃い、人らしき影が見えて皓月は驚いた。皇太子が確認すると、既に息絶えていた。が、目立った外傷はなく、何故こうなったのかは判然としない。道端に一先ず寄せて、さらに進むと、更に五、六人の遺体を発見した。

 身形から、鄧敬義が言っていた、母皇を探す為に、山に入っていた面々だろう。何れも外傷はなく、何故死に至ったのかは、やはり判然としない。


「先程の巫師らしき人物が申していた“毒気”でしょうか」

「その可能性はあるでしょうね。――しかし、毒気とは何でしょう。この山が禁足であるということと、何か関係があるのでしょうか?」

「……以前にも、廬梟の者が玄冥山に迫ったことがあります。その時に調べたのですが、玄冥山についての資料は殆ど無かったのです。しかし、皇宮秘庫なら。何かしら情報が隠されているかも知れません。今でしたら、母皇上もいらっしゃいませんし」

「まさか。……忍び込むおつもりですか?」

「それは……必要に応じて」


 皦玲きょうれいと出くわす可能性はぐっと高くなるが。皇宮と皇太子の宮殿は、隣り合っているといっても、そこそこ距離がある。


「母皇上の白虎の気配を探って居るのですが、どうにも見つかりません。何かに邪魔をされているような……。母皇上が山に入られたのならば、何か秘密があるのかもしれません。死者が出ている理由が不明な以上、無闇に歩き回るのも危険そうですから、ここは、別の糸口を探すのも手かと」

「ご随意に。今の私は……あなたの護衛ですから」


 そう言ってまた微笑んだ皇太子の表情は穏やかだったが、なぜかほんの少しだけ、その目が揺らいでいるような気がした。


 * * *


“頼む。……我の……意識が、まだ、ある内に……”


 あれは、誰の声だっただろう。


 遙か彼方に煌めく残照のような。このよどみの中の唯一の輝き。

けれどもそれは、次の瞬間には忽ちかき消えて、吐き気を催す臭気と穢れの中に埋没してしまう。


 時折浮上しては、忽ち引きずり込まれ、呑み込まれ、混濁する己の意識とともに。


「ああ――何故……は、ここに……」


 声の代わりに口からは、周りと同じく、泥のような汚らわしい黒々とした何かがぼとぼとと零れ落ちて垂れ下がり、蜘蛛の糸のように粘ついて離れない。


“……もう、……我には、……あれは到底、手に負えぬ……早く……”


 ――身が震える。

 生身を刃に刺し貫かれ続ける様な痛み。

 身の内から我が身を食い破るような苦しみ。

 不快に纏わり付く穢れ。

 そして、しんを貫くこの――絶対的な孤独。


 声は、届かない。


 一体、いつまで、……わたしは……。


 嗚呼。

 けれども。

 それよりも。

 しかし。


……わたしは、一体、“誰”……?

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