第十六
誰かに呼ばれたような気がした。
が、急に圧迫感がして、皓月は口を開いた。途端、水が入り込んできてもがく。渦を巻いて立ち上る、濁った水の柱に、白虎ごと飲み込まれたのだ。
月靈はどこだろう。周りを探るが、それらしき気配は近くにない。
まずはこの水をどうにかせねば。
皓月は剣に手を伸ばした。濡れた風衣が纏わり付いて動きを鈍らせる。それでも皓月は気力を振り絞り、剣を揮った。しかし、抵抗も空しく、ただ水をかき混ぜるに留まる。
このままではいけない。
ところが、皓月が金気を操ろうとする度、何かに奪われるかのように抜けていくのである。
何が起こっているというのか。だが、焦ってはいけない。焦ってしまえば息がもたないだろう。
水のうねりを感じ、その流れを読み、皓月はもう一度、意識を集中させた。
その時、慣れた気配が近づくのを感じた。間違いなく、月靈だ。
下から押し上げられるのを感じて、その背に触れた。
再度、剣を揮う。
僅かに水の切れ目が生じる、その一瞬を見抜いて、皓月は風を操った。
* * *
轟音を立てて立ち上る水の柱が目に入ったのは、旣魄が引き返し始めてすぐだった。
「あれは……」
濁った泥水が巻き上がり立ち上り、恰も蛇が鎌首をもたげたかのようである。妙な気配だった。水のように澄んでいるかと思えば、怖気を催すほどに穢れてもいる。ほぼ本能的に、触れてはならないと感じた。溝色の濁りの中に、見覚えのある翠色が一瞬、過った。
確かめようと、更に近づこうとした旣魄の腕を、力強く引き留める者があった。
「近づくな、旣魄。あれは……良くないものだ」
旣魄と同じ、青みを帯びた銀の髪を藍の組紐で縛っている。切れ上がった瞳もまた銀。顔の造りはどことなく旣魄と似ているが、良く言えば意志が強そう、悪く言えば頑固そうな表情を浮かべた青年は、旣魄の青龍・
「……道中、随分静かだったから、しゃべり方を忘れたかと思っていたが?」
「白虎どもの前で話すことなどない。だから話さなかっただけだ」
「――妃はあの中に居るのだろう?」
先程一瞬見えた翠色は、妃が着ていた装束と同じものに見えた。
気配に聡い浧湑は分かっているに違いない。が、青龍は目を背けた。
「……答えたくない」
「そうか」
つまりはそういうことだろう。
今の旣魄は彼女の護衛だ。助けに向かうべきである。だが、旣魄が彼女を追ってきた理由の大部分は既に達成したと言っていい。己の出生の糸口は掴んだ。これ以上、妃からは有益な情報は出てこないだろう。
皇太子妃の身分にあって、無断で東宮を抜け出すことは、やろうと思えば十分罪に問える。本来、それ程の大問題なのだ。旣魄にその意思はないが。
とはいえ、無断で東宮を出て、仔細の知れぬ玄冥山に入り、そこで何があったとしても、浩の痛手にはならない。周家を下した今となっては、東宮の後宮に浩と並び立つ颱の皇族しかいないことは脅威にもなり得る。この状況に危機感を覚え、颱を抑えられる新たな秀女を迎える様に進言する者が出てきても不思議は無い。瀏客が案じた通り、妃には秘密を知られすぎているのも確か。
ここに来るのを望んだのは本人。危険は承知だろう。今ここで、旣魄が手を出す必要は無い。あそこから脱出できるか否かは、本人次第。出来なければ、それまでの人物だというだけだ。
頭の中で、冷静というよりも、冷淡な声が響く。
それなのに。
旣魄は柳眉を寄せた。
何かが旣魄を急き立てる。心が波立つ。
「旣魄?」
一歩を踏み出した旣魄に、浧湑が戸惑ったような声を上げる。己を掴む浧湑の腕を払い、顔を上げた旣魄の前で、水柱が爆ぜる。
直後、激しい突風が吹き荒れた。その風の強さに、思わず目を閉じた。
ややあって、風が収まったのを感じた旣魄が僅かに瞼を持ち上げる。すると、剣を携え、白虎に乗った妃が、水の柱を切り裂いて、中空に飛び出してきたのが目に入った。
怒気か何か。鋭い感情を映した金緑の瞳。それは、黒宮が燃えた夜、瓦礫の中から白虎を従えて飛び出してきた、あの瞬間を彷彿とさせた。
「――……」
彼女は、旣魄に気付くと、力強く微笑んだ。
「白小姐……!」
そして、この瞬間、そうとしか呼べないことを、何故か、酷くもどかしく感じた。
* * *
水の柱の様なものから脱した直後、皓月はこちらに向かってくる皇太子を見つけた。見れば、水の柱は支える力を失ったように、一気に崩れ落ちてしまった。一先ず皇太子と合流しようと、進路を変えた所で、皓月の肩口のごく近くを、矢が掠めた。
「――!?」
白虎が、怒りの咆哮を上げる。
二射目が飛来する。剣を構えた皓月だったが、それより先に、手前にいた皇太子が軽やかに跳躍して打ち落とした。相変わらず、長身で優雅な見た目からは想像も付かぬほどに俊敏な動きだ。
「――はははっ! なんて様だ? なあ、小虎」
明らかな揶揄いを含んだ声。皓月を「小虎」と呼んだその声――。
「……
「小虎。久しぶりだなぁ」
緑なす黒髪。夏でも寒冷な気候の為、分厚い布で作った立ち襟の衣も黒を纏う、その男。
若くして廬梟の棟梁となった男。皓月も、過去に何度も戦っている。独特の黒い面をつけるのは廬梟の者の特徴だ。魔除けらしいが、見る度に何か不穏なものを感じさせる。
北方は、四靈の内、玄武守護下にあったが、ここ数百年と、玄武の守護を持つ者は現れていない。原因は不明だ。血筋が断たれた、とも言われては居るが。
本来、玄武は水を司る。
その守護を失ったためか、北方は深刻な水不足が慢性化し、かつ寒冷な気候の為、まともに植物が育たない。故に食糧や生活する上で必要な物資を得ようとするなら、あるところまで行って狩るか、近隣と交易して購うか、水のあるところの庇護を受けるか。或いは、……奪うか。ということになる。
そうやって奪われたところもあるし、奪ったところもある。
殊にこの玄冥山を巡っては、過去に何度も、彼らは侵攻を繰り返している。
「女帝が来ていて、お前が来てないと思ったら、やっぱり居たのか。どこに隠れていた? 泥の中か?」
泥だらけの皓月への揶揄と受け取った皓月は、白虎から下り、柳眉を吊り上げた。
皓月が戦場に出るようになってから母帝は基本的には皇宮に残るようになっていた。皓月の代わりに皇太子として残った皦玲には無理と判断したのか、或いは何か別の意図があったのか。宜王から聞いた話から考えると、母帝は明確な意図があってここに来た。
白虎だけをともに、玄冥山へ入った、理由が。そして恐らく、颱がこの山を死守する理由も。
玄武の守護を持つ者が絶えたという事実は、この大陸に少なからず影響を与えている。浩が国号を「浩」という、豊かな水を表す名を冠しているのも、姓を「水」としているのも、五行の木を司る青龍にとって「水」が不可欠で、それを補う「呪」としての効果を意図しているのは明白だ。
「う~ん。……小虎、お前、なんか……印象変わったか?」
「そなたは相変わらず、馴れ馴れしい!」
「その烈しい気性は変わらんな」
言葉と同時に突き出した剣を軽くいなして、黎駽が笑う。皓月はそのまま回転を掛けて蹴りを繰り出した。が、自分でも分かるほど、常の精彩を失っていた。先程の水の柱の中で、何かに気力を奪われたためである。それに恐らく、黎駽も気付いただろう。皓月は再度剣を構え、呼吸を整えてから動こうとした。その、皓月の横をするりと抜け、皇太子が黎駽に向けて剣を揮った。
急に間に入った皇太子に驚いたか、それともその威力が想像以上だったか、反応の遅れた黎駽の黒々とした長髪の一房を剣が断ち、面を真っ二つに割った。
軽い音を立てて、面が地面に落ちる。いかにも好戦的な笑みを浮かべた顔立ちが露わになる。堂々たる美丈夫といった風貌だ。年齢は皇太子と同じ位だろうか。
濡れたような瞳は
「――無礼者」
皓月の前に立って黎駽と向かい合った皇太子が剣を構えたまま、短く吐き捨てた。
「……なんだ? この矢鱈顔の良い男は。小虎。お前の
「……めっ……そんなんじゃない!!」
「ああ……うん、まあ、だろうな。お前の反応、どう見たって――」
「――無駄口を叩く余裕があるらしい」
くすっと笑った黎駽に対し、皇太子が斬り込んだ。声は落ち着いているが、いつもよりも妙に荒々しい太刀筋だった。苛立っているような。
「腕が立つな。西では見慣れない剣法。――面白い」
黎駽の目が好戦的に輝き、己の刀を構え直した時である。
突如、地が震えた。立っていられない程の激しさだ。
かと思えば、今度は地面から噴出する様に悪臭が漂い、皓月は眉を寄せる。
「黎駽様。――毒気が満ちております。ここは一度、退くが宜しい」
落ち着き払った声が響いた。見れば、いつからそこに居たのか、黎駽の背後に巫師らしき出で立ちの者が立っていた。背丈から察するに女人のようだが、低く掠れた声は、男か女かが窺えぬ類いのものだ。
「毒気?
「毒気は毒気。その名の通り、人には毒となります故、お早く」
恐らく、この臭気のことだろう。
黎駽は、一度皇太子へ、そして皓月へと視線をやって、舌打ちをしてから自らの馬で去って行った。
「一先ず、私たちもこの場を一度離れましょう」
皇太子の言葉に、皓月は頷いた。皓月も、このにおいには耐えられそうに無かった。
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