第十五

「鄧敬義? ――確か、颱の皇太女殿の腹心でしたか」

「そうです。可能性はあまり高くはないと思いますが、鄧公子が出てきていた場合、十中八九、わたくしの正体を悟られるでしょう」


 玄冥山に着く前だった。颱側の者と出くわした場合の対処について事前に打ち合わせる中で、その名が挙がった。


「すると、それ程の側近でなければ気付かない程に似ていらっしゃるのですか?」


 旣魄の問いに、妃は「顔だけは」と苦笑いをしながら頷いていた。


「ともかく。鄧公子と出くわした場合、下手に否定したり、ごまかしたりするよりは、協力を仰いだ方が良いでしょう。多少強引にでも」


 という言葉通り、妃は鄧公子と出くわすなり、電光石火の早業で彼の顎を蹴り上げ、胸ぐらを掴んで投げ飛ばし、暗器を突きつけた。まさしく流れるが如き動作は、躊躇というものが一切ない。

 どちらかと言えば文人然とした彼は、抵抗の余地もなくあっさり地面に倒された。


 鄧敬義。

 浩では「毒蛇」と称される、抜け目のない男だ。名望高い皇太女に仕えている為、国内での評価は悪くない。が、仕える主によって世間からの評価が正反対に分かれる男であるのは間違いない。ともすれば手段を選ばない嫌いのあるこの男を正道に引き止めているのは、主君である皇太女であろう。

 緑の黒髪を高く結い上げ、金と銀の額飾りを身に着け、白い風衣の下には、濃い緑色の刺繍が施された黒い長衣を身に着けている。歳は今年で23と聞く。深山を思わす深い緑色の瞳には鋭い光が宿る。それが、妃を見た瞬間、揺らいだように思われた。あっさり地面に引き倒されたのも、妃の攻撃が一切容赦無かったのも一つあるが、鄧敬義自身の戸惑いも大きかったのだろう。武名高く、荒事を得意とする皇太女の右腕として、彼も申し分の無い腕前を持っていることを旣魄は知っていた。


「その件さえ片付いたら我々は帰ります。ですから、敬義。それまで協力なさい」


 鄧敬義を押さえて見下ろす妃の視線は、妙に冷え冷えとしている。この男が現れた時から、明らかに彼女の纏う空気がひりつき出した。そして、それをなんとか押し殺そうとしてか、無表情になってもいた。


「帰る……」


 妃の言葉を噛みしめる様に繰り返した彼の目に浮かんでいた、感情もの。まるで焦がれるような――それに気付いた旣魄は、ひっそりと眉を寄せた。

 颱の皇太女に心酔しているという話は、浩まで届いて居る。その彼が、なぜ、妹である妃にそのような目を向ける。


「……白小姐、貴女のお言葉に、否やなど申せましょうか」


 颱の皇族は伝統的に微行おしのびにおいてそのように呼ばれる、と妃から聞いてはいたが、迷った風もなく鄧敬義が言った辺り、本当らしい。別にそれを疑っていた訳ではないが。

 旣魄が疑っているのは、まただ。

 似ているという皇太女あるじと妃を間違えた訳ではない以上、彼は妃が浩に嫁いだことを知っていて、それでもなお、そのように呼んだ。

 思えば妙に心が波立った。そんな自分に戸惑った。


 故に、別の気配が近づいてきたのに気付いて離れたのだ。どうも妃は旣魄に遠慮しているような気もしたというのもあった。

 背後で、肌を刺すほどの怒気が膨らんだのを感じた。

 恐らく、気の弱い者なら窒息してしまうであろう程の。


「――まあまず今は、名馬と名高い廬梟ろきょうの馬を確かめてみましょうか」


 蹄の音が響く。妃と鄧敬義が居る方向へ向かっている。

 颱とも浩とも異なる装束を身に着け、黒に白い紋様の入った面をそれぞれに身に着けている。彼らの駆けゆく先の地面を見据える旣魄の瞳が一瞬、仄青く煌めく。直後、先頭の一騎が転倒した。後続の馬も避けきれずに、次々ぶつかっていく。

 青龍は五行で言えば木。旣魄の青龍(銀色だが)に命じ、樹木の根を這わせ、馬の足が引っかかるように仕向けたのだ。流石に騎馬相手に剣だけで向かって行くのは無謀というものである。

 突然の転倒に驚いた一行だったが、現れた旣魄に、一気に殺気立った。まあ、この時期に厚手の外套を着込んで顔を隠しているのだから、怪しめと言っているようなものではある。


「何者だ!?」


 無論、答える義理はない。

 そのまま剣を閃かせ、一人を絶命させた。目の前で跳ね上がる血飛沫に、怯んだ様子を見せたもう一人を狙って、更に一閃。これで二人。背後に気配を感じ、飛び上がった直後、敵の刃がその残像を斬る。


「――クソッ」


 くるりと身を返しながら、手近な木の上に着地した。その足下に、矢が迫る。が、既に別の木に飛び移った後だ。


「ちょこまかと!」


 苛立った声がして、旣魄は軽く木を蹴って、弓を構えた男に迫る。慌てて放たれた矢は、見るからに精彩を欠いている。目の前に迫る矢を剣で打ち払い、そのまま旣魄は弓を構えた男へ肉薄して弓を切り折り、そのまま肩から斜めに刃を振り下ろす。

 男が何か叫んで激しく斬りかかって来たが、そんな叫びの一一を、耳に入れている時間も惜しい。旣魄の剣が閃き、男の四肢から切り離された手首ごと、宙に跳ね上がった刃が、夕日の最後の残光を反射して鈍く閃いた。


「ひっ……」


 瞬く間に四人を斬殺した旣魄を、化け物を見るような、恐怖を貼り付けた目が見上げた。――かつて、何度も目にしたことのある、目……。

 情け容赦の無い銀の目が、その目を見下ろす。

 剣を振り下ろそうとした旣魄の背後で、激しい水音が立ち上った。水中に潜んでいた大きな生き物が、盛大に身を表したような。そんな音だ。

 鋭い一太刀を最後の一人に浴びせると、すぐさま身を翻した。


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